右に引用した西方村の記録の中には、神楽のことも出てくる。明治八年七月二十四日、西方の「愛宕平社」(平社とはその後無格社とよばれたものに相当)の定例の神楽を挙行いたしたいと副戸長から第弐区邏卒屯所に届出ている。
この神楽はおそらく里神楽で、関東一円に広く行われ、埼玉郡鷲宮(現北葛飾郡鷺宮町)を中心に土師(はじ)流神楽と称するものが流伝していることも心強い。越谷市内には、神楽の太夫元が四ヵ所あり、神明下・荻島・谷中・西新井がそれで、戦後においても各地に招かれては出張奉奏しており、久伊豆神社の祭礼の場合は中町の組は神明下、本町の組は荻島と伝統的にきまっているそうである。
桜井支所に保存されていた簿冊の中には種々の興行ものの申請書が散見する。ほかの地区については右の西方(明治八年)のもの以外、史料がないようであるから、この桜井のものに従って以下述べることにする。
明治十八年三月大里の中村栄次郎・同喜八は同地の観音堂に奉納するため、北足立郡大門町酒井辰之進ほか二名の神楽師を雇って上演させている。また上間久里の吉岡栄次郎・同五右衛門は村内地蔵堂に奉納すべく、同じ酒井辰之進を雇っている。
さらに同二十年三月一日大里の同じ中村両名が観音堂境内で同じく酒井辰之進に奉納神楽を演じさせた。そして翌々日は上間久里の地蔵堂境内で同人に上演させた(氏子惣代小倉善右衛門と同上原治郎右衛門の申請である)。
右は桜井地区の例だが、越ヶ谷の例が二つ、越ヶ谷町雑書類編冊の中に見出される。明治三十三年六月、仲町浅間社世話人小泉市右衛門らが奉納神楽を催したこと、同年七月十四日越ヶ谷町の永野庄蔵・込山善次郎・松沢滝蔵・社掌池田吉兵衛らが、北足立郡土合村大字南元宿高野銀蔵と京橋区長崎町一丁目谷塚清十郎とを雇って、越ヶ谷町八坂神社(天王社である)奉納として催したことである。越ヶ谷の町では八幡社・市神社・浅間社・八坂社などの祭礼が、久伊豆社のとは別に行われていたので、こうした遠方の神楽師の演ずるのを見る機会はしばしばあったであろう。右の天王祭りの分は「囃し神楽」と記してあるので、いわゆる神楽ばやしだけだったと思われもするが、それにしても午後五時より十一時までとあるから、やはり里神楽が上演されたと考えねばならないだろう。
右の場合曲目について一切記さないので、曲目については『越谷市民俗資料』にたよるほかない。ほとんどが、天の岩戸・狐の種蒔き・おかめひょっとこ・八岐の大蛇だとされる。西新井の神楽組(お神楽連中)には三番叟もある(神奈川県相模原市番田の神楽太夫の話によれば、神楽の三番叟は明治初年から始められたものだとのことである)。
神楽囃しは、越谷市域では「五人囃し」といわれることも多い。つけ太鼓二人・大太鼓・笛・鉦の五人で構成するからである。