芝居・手踊の興行

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興行もののうち最多は芝居・手踊である。桜井地区の簿冊によって見ると、明治十八年九月、大里の下田長次郎が自宅で、奉納のため、神田区鍋町船津方寄留小倉福次郎こと阪東福三ほか一名を雇って手踊を上演した(この芸人の名は阪東福三こと小倉福次郎というべきであろうが、住所を掲げるため本名がつい先に出、芸名があとになってしまったようである)。この阪東福三という芸人はこの土地になじみが出来たと見えて、翌十月大泊の岡本馬次郎の自宅での正観世音奉納の芝居にも、また十一月平方の白石浅右衛門の七福神社境内の奉納芝居にも雇われている。

 桜井村のこれら芸人の起業届を見ていくと、上間久里の森富金次郎が「遊芸手躍稼人」として明治三十四年九月に、平方の森紋右衛門(明治十一年生)が「遊芸出稼人手踊」として同年十月に、大泊の西堀織吉(芸名市川眼三郎、明治十年生)が「遊芸出稼人」として三十九年八月に、大泊の長浜幸次郎(芸名片岡幸昇、明治十二年生)が「遊芸出稼人」として同年同月に、大泊の関根佐太郎(明治九年生)が「遊芸稼人」として四十二年八月に、平方の小島繁蔵(明治十九年生)が「遊芸稼人」として四十二年六月に、いずれも起業を届けており、廃業は前記遊芸手躍稼人森富金次郎が三十五年三月に届けている。

 ここで明治十八年十二月以後大正二年までの間に出願された興行物(神楽は既に述べたので除く)の一覧表を作成してみると次頁以下のようである。

年月日興行の種類期間出願人場所雇人または芸人理由木戸銭
明治一八・一二・七芝居一日平方 白鳥三吉鎮守女帝社境内本所区表町渡辺清八事沢村民吉他三名女帝社奉納
〃 一九・二・二〇手踊 〃大里 下田長次郎自宅神田区鍋町小倉福次郎事阪東福三外一名
〃 一九・四・一五手踊 〃大泊 高崎はる観音堂境内神田区鍋町森留金太郎事阪東勝寿外二名観音奉納
〃 一九・七・一写絵 〃〃 安藤善成自宅船渡村関根房太郎事竹林児省外二名奉納
〃 一九・一〇・二八手踊 〃〃 関根仲次郎香取社境内小倉福次郎事阪東福三外子供連香取社奉納
〃 一九・一一・二四手踊 〃〃 萩原てり地蔵堂境内森留金太郎事阪東勝寿外子供連地蔵尊奉納
〃 一九・一一・二七芝居 〃〃 関根仲次郎安国寺境内小倉福次郎事阪東福三外四名稲荷社奉納
〃 一九・一二・二〇手踊 〃平方 飯山竹治郎自宅浅草区南清島町関根仲治郎事沢村仲蔵外三名八幡社奉納
〃 二〇・一〇・一手踊 〃大泊 瀬尾秋蔵当村一八番地森留金太郎事阪東勝寿外二名
〃 二〇・一〇・一四手踊后六~一二時平方 関根半蔵当村一九番地道化踊営業人浅草区清島町関根仲次郎外三名
〃 二〇・一〇・二五手踊 〃平方 山口祐右衛門鹿島社境内森留金太郎外二名鹿島社奉納
〃 二〇・一一・三〇手踊后三~一二時下間久里 松崎吉蔵浅草区清島町本多八十八外二名香取社奉納
〃 二一・四・一〇人形芝居后四~一二時上間久里 吉岡源太郎村内二八番地北埼玉郡上新郷須永馬之助香取社奉納
〃 二一・四・一五人形芝居后三~一二時下間久里 藤田藤吉村内四〇番地同右同右
〃 二六・五・一二手踊前一一~后八時三室村 矢部繁太郎安国寺境内北足立郡三室村矢部繁太郎外五名大人一銭五厘小人一銭
〃 二八・二・一五~手踊(二輪歌謡)二日(后三~一一時)本所区 長島栄次郎関根鱗太郎庭内大人二銭五厘小人一銭五厘
〃 三四・一・一五~遊芸人形二日上間久里 池沢秋蔵上間久里北足立郡土合村高野銀蔵外二名二銭九厘
明治三四・一〇・二三芝居前一一~后一二時平方 森田新四郎神社前畑地俳優人森脇勘蔵外四名稲荷社祭典なし
〃 三四・一二・一二遊芸人形后五~一〇時大里 宇田太蔵自宅高野銀蔵外一名大人二銭九厘小人二銭
〃 三六・一・一演劇后一~一一時上間久里 池沢秋蔵上間久里一六下谷区下谷町飯塚左仲外二名三銭
〃 四二・一〇・九~活動写貞二日(后五~一一時)大里 時田藤太郎自宅構内浅草区浅草活動写真技手青木秀太郎大人五銭小人三銭
〃 四一・一〇・一三~操釣人形二日平方 関根又六平方九番地北足立郡土合村青木伴助四銭
〃 四一・一一・一六太神楽后三~一二時平方 森武次郎自宅構内小屋掛赤坂区赤坂長浜幸次郎大人四銭小人三銭
〃 四一・一二・二四手品半身面 人形物真似二日(后七~一一時)大里 時田藤太郎自宅東京府北豊島郡日暮里村三田村伍郎助大人四銭小人三銭
〃 四二・三・一一操人形二日同右同右新潟県北蒲原郡水原町池田兼代外一名大人四銭小人二銭
〃 四二・三・一五人形手踊一日同右同右山形県飽海郡大沢村池田庸太同右
〃 四二・三・一八操人形后六~一二時下間久里 金子清次郎自宅
〃 四二・八・一四太神楽三日時田藤太郎庭内赤坂区赤坂裏町関根佐太郎
〃 四二・一一・一五手踊二日平方 中村松五郎自宅武里村大字備後飯山仙太郎他二名三銭
大正元・一〇・二三演劇二日(后五~一一時)平方 押田由一自宅所有地小屋掛桜井村大字上間久里森富源内外四名大人六銭小人四銭
〃 二・一〇・二〇演劇后四~一一時平方 厚沢忠四郎小石川区大門町吉田弥惣治(芸名市川三好)外四名大人六銭小人三銭席料大人五銭小人二銭
〃 二・一一・二五演劇二日平方 小早川忠次郎自宅同右大人六銭小人三銭中銭二銭

 このうち演目のわかるものは二件だけで、明治三十四月十月のは、蝶千鳥曾我曙の対面の場・仇討の場・狩家問答の場と、仮名手本忠臣蔵の三段目登場喧嘩の場・九段目山科浪宅之場・十二段目夜討之場とであったし、大正元年十月のは、仮名手本忠臣蔵の三段目鶴ケ岡御殿之場・六段目勘平切腹之場・七段目一力芝屋之場と浅倉双紙紅葉短冊の甚平舟渡之場と惣五郎家之場とであった。

 手踊・芝居がもっとも多いが、人形芝居(遊芸人形・操釣人形・操人形も同じであろう)が中にまじっている。あやつり人形は今も素朴なものが東北地方に伝えられているが、ここでも明治四十二年という年代に新潟・山形の芸人が訪れているのが目につく。やはり奥州街道に沿った村落であるという利点があるものと見える。

 この表のうち地元の芸人は、明治十九年の船渡村の関根房太郎、明治四十二年の武里村の飯山仙太郎、大正元年の上間久里の森富源内、この三人だけである。しかし、同じ旧桜井村の簿冊の中に「遊芸稼人」の起廃業届が散見するのでそれを見て行くと、大泊を本籍とし大沢町に寄留する関根佐太郎が、明治九年生れで、明治四十二年八月に遊芸稼人として届けているのは、同年同月、赤坂区赤坂裏町関根佐太郎として太神楽を大里の時田家で上演しているのと、同一人にちがいない。しかもこの関根佐太郎はその一五年前の明治二十七年に、「遊芸太神楽税」三ヵ月分金壱円五拾銭を滞納して村役場から督促を受けている。その時かれは一八歳、「芸は身を助く」のことわりで太神楽の芸に打込み、それで身を立てようとしていたことがわかり、その後大沢に住んだり、赤坂に居住名義を借りたりして、甲斐々々しく芸の道を歩んでいたことがわかる。そういえば、上間久里の森富源内(大正元年)は、明治十九~二十年にしきりに出て来る「神田区鍋町船津林重方寄留森留金太郎」という芸人の縁者なのではなかろうか。

 大正昭和期には村芝居(地芝居)がけっこう流行したようである。しかし『越谷市民俗資料』には、東京府南足立郡の舎人村(現足立区)から役者をよんできたという記事があるくらいのもので、地元の演じた村芝居のことがあまり出ない。神楽太夫が市域に四軒もあることは既に述べたが、この人びとは大正昭和期に芸人と酷似していて、面芝居という演劇を神楽に添えて上演することもあったと思われる。『越谷市民俗資料』に、(東方で)柿ノ木や荻島からきて芝居もかかった、とあるのは、それを意味しているのかもしれない。柿ノ木(現草加市内)や大門(現浦和市内)にも有力な神楽太夫がいるのである。

 村人の好んで演ずる芝居には万作芝居(万作踊)もあった。万作芝居は埼玉県下一帯にきわめて盛んであった。市域でも、大林では、かつては盆の施餓鬼の際に、これが若者によって演じられたが、明治四十三年の洪水を境に衰えた、ということであり、各部落で行われていたらしい。