国民精神総動員運動

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昭和十二年七月七日、中国北京郊外蘆溝橋で突発した日中交戦に端を発し、日中国交は極度に悪化して、ついに日中戦争に発展していった。この間昭和十二年九月、第一次近衛内閣は、戦時三法といわれる「輸出入品臨時措置法」「臨時資金調整法」「軍需工業動員法」を公布し、翌十三年四月には、国家による国民統制の根本法規となった「国家総動員法」を公布した。

 また政府はこれら法令とは別に、国民の総力を戦時体制に結集させるため、昭和十二年八月二十四日の閣議で「国民精神総動員実施要綱」の採用を決定した。この要綱によると、「凡ソ難局ヲ打開シ、国運ノ隆昌ヲ図ルノ道ハ、我ガ尊厳ナル国体ニ基キ、尽忠報国ノ精神ヲ益々振起シテ、之ヲ国民日常ノ業務生活ノ間ニ実践スルニ在リ、今般国民精神ノ総動員ヲ実施スル所以モ亦此ニ存ス」としてその趣旨を示し、運動の目的として日本精神の発揚・社会風潮の一新・銃後後援の強化・非常時経済政策への協力という項目を掲げている。さらにこの具体的な実践としては、日常生活の刷新・享楽の節制・軍人家族への慰問・金品の献納・国債購入の応募・冗費の節約・貯蓄の奨励・廃品の回収及びその利用などが示された。

 こうした実施要綱にもとづいた国民精神総動員運動の推進機関としては、運動の企画をたてる大もととして、内閣情報委員会、ならびに内務省・文部省がこれにあたったが、実際の実施機関は「国民精神総動員中央連盟」という官民合同の外郭団体が運動推進の中心となった。さらに道府県には地方長官を中心とした同じく官民合同の地方実行委員会が設けられ、市町村ならびに町内会・部落会にまで運動の徹底がはかられるよう、万全の措置が講ぜられた。

 こうして各市町村では県の訓令にもとづき、各種の運動を展開したが、このうち出羽村の昭和十三年十二月に報告した精動運動実施状況をみると、次のごとくである。

○出羽村で行なった啓発宣伝に関するものでは

時局認識講演会一二回 出席人員延五七六人 出席者の種別は各種団体長ならびに役員

生活刷新講演会一回 一〇〇名 愛国婦人会と女子青年団

貯蓄奨励講演会一回 三三名 各種団体長ならびに役員

銃後後援会一二回 五七六名 出羽村吏と委員

○実践に関するものとしては、

青年団 勤労奉仕班と共同で作業を行う。参加人員延九〇名 回数一八

学校 道路の草刈・神社の清掃・害虫の駆除 一四回 三四〇名

婦人会 一般勤労奉仕班と共同作業 一八回 一八〇名

部落会 稲刈脱穀の調製・麦播等 一八回 九一六名

生活刷新 栄養料理講習会を開催し、農村向簡易料理の講習を受け、家庭生活の改善に役立てる。

貯蓄奨励 各大字毎に部落座談会を開き、貯蓄の普及につとめる。各種団体や学校で貯蓄組合を組織する。

物資節約 各部落会ごとに消費節約に関する協議会を開き、廃品の回収や利用の申し合せをする。

 このほか慰問文や慰問袋の発送・国防献金・応召軍人の歓迎・遺家族の慰問・千人針の作製など、怠りなく実施していることを県に報告している。

 また桜井村でも、昭和十四年二月の日本精神発揚週間にあたっては、祝祭日の国旗掲揚・戦没将兵の墓地参拝・武運長久祈願の神社参拝・勤労奉仕の励行などが、村長から区長宛に指示され、精動運動の昂揚がはかられていた。

 しかしこの運動は、一部を除き、結果的にはかけ声だけの形式的な精神運動としてあまり効果があらわれなかったようである。このため昭和十四年三月、平沼内閣は、精動運動の立て直しをはかり、精動運動の主管を文部省から内閣情報部に移すとともに、新たに国民精神総動員委員会を設けて、これを内閣に直結させた。この政府の意向をうけた精動委員会は、同年六月、遊興営業の時間短縮・ネオン燈の全廃・学生の長髪禁止・中元や歳暮の贈答廃止など、具体的な国民生活規制の条項を上申した。

 これにより政府は、同年七月第一期刷新項目として、料理店等の営業時間短縮・ネオン燈の抑制・飲酒場所の制限・冠婚葬祭の簡素化・中元歳暮の贈答廃止・服装の簡素化・フロックコートやモーニングの着用制限・男子学生の長髪禁止・婦女子のパーマその他浮華なる化粧や服装の廃止を打出した。中央のこうした動向を反映し、農村地域でも一層の引締政策がとられた。すなわち出羽村では同年八月三十日、明九月一日を興亜奉公日と定め、毎月朔日を奉公日にあてる。一家揃って毎朝宮城遙拝をなす、時間厳守の徹底を図る、勤労奉仕を倍加する、禁酒禁煙、宴会の廃止を断行する。家庭内を整頓し、廃品回収をなす、など、これは中央からの通牒であるとしてこの実行を指示していた。

 このうち興亜奉公日の行事は、そのつど県に報告することが義務づけられていた。たとえば出羽村の報告による同年十二月一日の行事をみると、「本年度最後ノ興亜奉公日ニ付、特ニ各部落毎ニ左記事項ヲ励行セシメタリ」として

(1)早起キヲナシ一家揃ツテ宮城遙拝

(2)神社参拝ヲナシ、皇軍将士ノ武運長久ヲ祈願ス

(3)時間励行、禁酒禁煙ヲナシ、特ニ貯蓄ヲ励行セシム

(4)特ニ電力並ニ燃料(木炭・薪)ノ節約ヲ計レリ

  小学校ニ於テモ左ノ通リ励行セシム

(1)各通学団長指揮ノ下ニ、早朝宮城遙拝、神社参拝後神社ノ清掃ヲ行ナヘリ

(2)机戸棚ヲ整理シ、廃品回収ヲナス

(3)慰問文集ヲ出征兵士ニ発送ス

とある。ことに在郷の中心である越ヶ谷町の時局懇談会では、中央の意向に呼応し、同年十二月、左のごとき声明書を決議した。

  我等ハ今日ノ急迫セル非常時局ニ直面シ、消費節約、物資愛護ノ主旨ヨリシテ服装ノ簡易化ヲ計ルノ要アルヲ痛感スルヤ切ナリ、依ツテ当越ヶ谷町ニ於テハ、皇紀二千六百年ヲ記念シテ、昭和十五年一月一日ヨリ事変中式服ニ代フルニ国民儀礼章ヲモツテスルコトニ定メタリ、而シテ我等ハ更ニ附近町村ニ呼ビカケ、我等ノ提唱ニ来タリ合セラレン事ヲ建言セントス

  右決議ス

大日本婦人会の神社参拝(出羽村)井出門一氏提供

ここに人びとの日常生活にはようやく深刻な影響がみえはじめた。すなわち自由で恣意的な行動は衆人の監視のもとに制約されたのはもちろん、その服装も派手なものや明るい色のものは姿を消し、男はカーキ色の国民服、女子は紺のモンペ姿が普通になっていった。

 政府はこうした国民運動をさらに推し進めようとはかったが、これには相互監視・相互扶助の連帯組織で効果をあげた江戸時代の五人組に相当する隣保班などの編成を強化するのが重要であることに着目した。そして昭和十五年九月、「部落会・町内会整備要綱」という内務省訓令を発した。本来こうした隣保組織は自主的なものでなければならなかったが、あえて内務省がこれに介入したのは、当時もり上ってきた国民の自主的な新体制運動を内務省が吸収し、同時に部落会や隣保班の末端組織を掌握することで、一億の国民をもらさず国家機構の中に結集させようとはかったからであった。

 ついで昭和十五年十月、第二次近衛内閣によって臣道実践を旗じるしとした「大政翼賛会」が新たに結成されるにおよび、国民精神総動員運動は大政翼賛運動に引継がれて発展的解消をみた。埼玉県では同年十二月、次のごとき精動埼玉県本部解散の通牒を各市町村に発し、新たな段階を迎えたことを通知した。

  国民精神総動員運動ニ関シテハ、運動開始以来貴職ノ格別ナル御努力ニ依リ多大ノ実績ヲ収メツヽアリタル処、今次大政翼賛運動ノ展開ニ伴ヒ、本運動ハ爾今之ニ包摂シ其ノ発展ヲ図ルコトニ決定セラレ、之ノ趣旨ニ基キ国民精神総動員埼玉県本部ハ解散致候条御了知相成度、尚従来本運動トシテ実施シタル事項ハ、大政翼賛運動トシテ何分ノ指示アル迄ハ、引続キ貴職ニ於テ実施相成度、依命此段及通牒候也

とある。この間精動運動は引続き各団体によって活発に進められた。たとえば十五年十月の愛国婦人会による「兵隊さんありがとう」運動、国民体力の向上をはかるため発せられた国民体力法により、同年十一月に定められた越谷地域体力法の実施要綱、同じく紀元二千六百年新年奉祝行事要項など、いずれも精動運動の一環であった。