部落常会

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ともかくこの大政翼賛会町村支部の実情を、増林村の例でみてみると、次のごとくである。増林村で部落会や隣組の整備編成が完了し、これを県に報告したのが同年に十二月十日である。部落会の総数は一七部落、部落によっておよそ二〇~三〇軒から六〇~七〇軒の組織に編成されている。このなかに五軒から六軒を一班とした隣組が総数一二〇班編成されていた。そして大政翼賛会増林村支部結成の動きのなかで、はじめての増林村常会が同年十二月十八日に行われた。この増林村常会の規約をみると、「本会ハ左記事項ノ実現ヲ期シ大政翼賛ノ臣道ヲ完フスルヲ以テ目的トス」とし、

  一、隣保団結ノ精神ニ基キ、区域内住民ヲ組織結合シ、万民翼賛ノ本旨ニ則リ、地方共同ノ任務ヲ遂行スルコト

  二、区域内住民ノ道徳的錬成ト、精神的団結ヲ図ルノ基礎組織トスルコト

  三、国策ヲ汎ク区域内住民ニ透徹セシメ、国政万般ノ円滑ナル運用ニ資スルコト

  四、国民経済生活ノ地域的統制単位トシテ、統制経済ノ運用ト国民生活ノ安定上必要ナル機能ヲ発揮スルコト

という綱領が掲げられている。この村常会の構成員は、部落会長・農会長・産業組合長・村会議員・小学校長・警防団長・軍人分会長・青年団長・愛国婦人会分会長などのうちから村長がこれを選任することに定められていた。しかも村長が兼任する常会長の招集により、少なくとも毎月一回は常会を開き経済・産業・警防・保健・社会・配給などに関する事項を審議する、と規定されいる。つまりこの常会は、国策遂行を担った村長への協力機関に外ならなかったのである。

 また部落会にも別に規約が設けられていたが、この目的や任務は村常会規約と同文であるが、部落会長も同じく村長の選任によると規定されている。ただし部落会規約には、村常会・部落常会の決定事項を実行する組織として、隣保班設置条項が掲げられており、同じく毎月一回の隣保班常会の開催が義務づけられている。

 それではこれら常会では、具体的にどのような会合を行なっていたであろうか。同じく増林村の昭和十六年一月二十日の常会例をみると、宮城遙拝、出征将兵の武運長久祈願、戦没英霊に感謝黙祷の後、

  一青年学校後援会設置ノ件 一小学校保護者会設立ノ件

  一配給品処分案      一冠婚葬祭改正ニ関スル件

  一管理米ニ関スル件    一健康保健ニ関スル件

  一供出藁出荷ニ関スル件

の案件が、村当局への協力という立場で審議が要請されていた。だが一般の人びとは、無条件で国策の遂行に同意していたわけではない。建設的な発想で自主的な要望やその考えを上部に反映させたいと切望していた。たとえば増林村大淵部落の同年二月の常会議案をみると、

  一国防観念の普及をはかるため、国民健康保険の国営を要望する

  一食糧増産のため、国有地のうち荒地の払い下げを希望する

  一食糧増産のため、肥料や作業衣、ならびに農具の円滑なる配給を希望する

  一国防国家建設のためには、官公吏や有力者の誠意を促すとともに、その粛正を要望する

  一家庭経済の増進を計るため、婦人による部落常会の設置を要望する

  一大政翼賛の推進を計るため、壮年団の結成を要望する

  一粗製濫造は国家の不経済につながる。とくに燐寸の精製を希望する

などの合理的な事項が討議されていた。しかしこのような常会の討議内容は、上意下達をねらった大政翼賛会の趣旨に反するものであったので、翼賛会当局は言論の統制を強化した。すなわち政府や県では、各常会の議案内容は、貯蓄の奨励・虚礼の廃止・時局に備えての心身鍛錬、出征兵士への慰問袋の発送・遺族の弔問などを討議するのが臣道実践への道であると呼びかけて、人びとの建設的な建言や切実な要求もすべて封じようとした。さらにこの方法として翼賛会の推進員制度を設けたり、常会指導協議会を設置して常会指導員の養成につとめたりした。

 このほか各種の翼賛会推進団体によって、「勝手な不平は語らずに、皆の為め国の為めを考へませう」「一人一役買って出て、我が隣組に尽しませう」「蔭でブツブツ言わないで、自分の意見も述べませう」といった「隣組常会十訓」のチラシが配付されたり、

  一両手を高くさし上げて 我等一億心から

   叫ぶ御国の大理想   今ぞ大政翼賛に

   もえ立つ力あはせよう

  二新体制に盛りあがる  国の骨組がっちりと

   固く結んだ隣組    職場々々に奉公の

   あふれる誠をささげよう

  三足並そろへ日章旗  たてて臣道まつしぐら

   みいつの光さすところ 興る東亜の国々を

   明日の栄に導びかう

(南埼玉郡教育会)

といった大政翼賛歌の普及がはかられたりして翼賛運動の高揚が側面からも推進された(『増林常会関係綴』)。ことに昭和十四年九月一日から毎月朔日に実施されてきた興亜奉公日は、十六年以降「自粛と自省」「勤労と増産」「滅私奉公」などの標語が掲げられ、国民の要望や意見はいずれも聖戦の名のもとに封じこめられた。

 このため村常会は次第に戦時色を濃くしていった。ことに部落常会や隣組常会には、翼賛推進員等による世話役が置かれ、常会の指導や監視にあたったので、自主的な論議はこの場から姿を消した。たとえば先に合理的な建言を打出した増林村大淵部落の、十六年十一月三十日の常会報告書をみると、その次第は、一国民儀礼、一常会の誓合唱、一講話国民の心構え、一同じく国防精神、となっており、協議事項では、一金物の供出についての一議題だけであった。そのあと十六年度稲作実収調査の報告と懇談会、それに配給品の処分を行なって散会している。常会成立当初の会合とはまったく異質なものになっていたことが知れる。なお「常会の誓」とは、常会のときに唱和する言葉で、「誓、我等ハ畏ミテ大御心ヲ奉体シ、和衷協力以テ大政翼賛ノ臣道ヲ完フセンコトヲ誓ヒマツル」というものであった。

 やがて昭和十六年十二月八日、日本軍によるハワイ真珠湾攻撃によって対米戦争が開始されるや、挙国軍事体制はいよいよ強化され、部落会や隣組の組織は完全に戦時行政の下部機構に組みこまれた。つまり部落会や隣保班は町村役場の下請的な機関になったのである。このうち部落会の任務は、隣組を統轄し、供出・配給をはじめ移動証明その他の戸籍業務、それに警防に関することや上部機関からの通達等の伝達を行なった。隣組はまたこれをうけて、供出・配給・公債の割当、国防献金・出征兵士の送迎・防空演習・金属や廃品の回収・回覧板の伝達などの実行にあたった。