昭和十一年五月の調査によると、愛国婦人会の会員数は、桜井村で四六人、村内婦人に占めるその加入率は九・四%、新方村が三七人で八・三%、増林村が五七人で一六・一%、大袋村が五二人で一一・八%となっており、その会員は村内一部の特殊な婦人層によって構成されていた。
その後昭和十二年、愛国婦人会とは別に、大日本国防婦人会の支部が埼玉県下に続々結成されてくるが、この団体は各町村の国策外郭団体に位置づけられ、半強制的な会員加入であったようである。たとえば桜井村では昭和十二年四月、村会の協議において、「国防進展上必要ナルモノト認メザル(ママ)ニ依リ、組織スルコトニ一同異議ナク」国防婦人会結成の決定をみている。そして同会の会員数を三〇〇名とみなし、この発会式の経費として村税中金八〇円の補助金支出を可決している。
ちなみに国防婦人会の活動を、『蒲生村時報』によって昭和十三年一月から同三月までの間でみてみると、次のごとくである。(1)愛国切手を購入し、慰問状にこれを貼付して発送する、(2)明治神宮と靖国神社に参拝、陸軍第二病院の傷病兵を慰問する、(3)「御守」を同封した慰問状を応召軍人へ発送、(4)醤油瓶二本を見舞として応召軍人家族を慰問する、(5)紀元節には各大字ごとの村社に参集し、参拝を行なって奉公の決意を示した、(6)村内各家庭を戸別訪問し、廃品回収を行ない婦人会の活動資金に組入れた、(7)戦没者の村葬に参列、手伝いなどの奉仕につとめた、などとなっており、会員数は当時四六二名を数えていた。
その後昭和十七年二月、大日本国防婦人会は、愛国婦人会その他の婦人団体を統合、その名も大日本婦人会と改められ発足した。