警防団

674 / 1164ページ

明治二十七年二月の勅令で消防組規則が発布され、永い伝統を持続した従来の自主的な消防組は、ここに国家の公認団体に位置づけられて新たな発足をみた。以来四五年間にわたって消防に水防に中心的な役割を果してきたが、昭和十四年四月、戦時体制強化の一環としてその組織は防護団と合流、その名も警防団と改められた。つまり消防組は戦時下国家総力戦における防空の業務も負わされたわけである。

 この指揮系統は、消防組時代と同じく、「防空と云い、水火消防と云い、警察その物であります」(『警防団の話』)という考えのもとに、警察の補助機関として警察署長の管掌下におかれたが、その組織は国家機関の中に組入れられた。この機構を、たとえば越ヶ谷町の警防団でみてみると、越ヶ谷警防本部とその下に第一、第二の分団で構成され、各分団ごとに消防・警報・燈火管制・交通整理・警護・防毒・救護の各班が設けられており、団員定数は団長以下二〇五名であった。また団員の給与や手当は、団長が年額金一〇〇円、副団長同二五円、分団長同一二円、部長同五円、警防員は出動一回ごとに金五〇銭が支給されることになっていた。しかしこの給与や手当、あるいは消防や防空に関する施設や器具などは、僅少な国庫補助金が交付されただけで、ほとんどが町村自治体の負担するところであったが、団員の選定や役員の任免は警察署長の権限下に置かれていた。

 さらに団員の訓練は、第一に滅私奉公を信条とする警防精神の錬成に重点が置かれ、それに団体・業務・綜合のきびしい訓練を経て、最終的には、敵機来襲を想定した防空の任務にあたることが定められていた。ことに空襲の危険が迫った昭和十八年四月には、警防団員に鉄兜が支給され、戦闘体制の先頭に立つことが示されていた。