翼賛壮年団の結成

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日米開戦直後、大政翼賛会の強力な外郭団体として翼賛壮年団が結成された。のちにこの団体は産業報国会や大日本婦人会などをはじめ、部落会・隣保班などもその指導下に置くほどの力を発揮した。越谷地域でも昭和十六年十二月二十三日、粕壁町公会堂において南埼玉郡翼賛壮年団の結成準備協議会が開かれ、翌十七年一月に結成をみたが、各町村単位の壮年団もつぎつぎに発足していった。

 この壮年団組織は、この先十六年のはじめに、桜井村などで、すでに興亜壮年団という名称で組織されていたが、この団員資格は二六歳から三五歳までの男子となっており、その目的も「和衷協力、質実剛健ノ思想ヲ錬成シ、皇国農民精神ヲ涵養シ、以テ国運進展ニ寄与スル」とあるごとく、精神の鍛錬に主眼が置かれていたようである。もちろん桜井村の興亜壮年団は、翼賛壮年団の結成とともに解消したのはいうまでもない。

 一方全国的に組織された翼賛壮年団は、たとえば増林村の団則でみると、団員資格は二一歳から四五歳の青壮年で、率先本団の目的に挺身しようとする同志をもって組織するとあり、その目的は、「大政翼賛会ノ指導下ニ、ソノ一翼トシテ地域職域ニ於テ率先大政翼賛運動ニ挺身スル」とうたっている。そしてこの目的達成の為、「(一)国民精神ノ昂揚、(二)時局認識ノ徹底、(三)興亜運動ノ推進、(四)国策遂行ヘノ挺身、(五)地域的職域的翼賛体制ノ促進強化、(六)戦時生活体制ノ建設、(七)岡防思想ノ普及、銃後奉公活動ノ強化、(八)其ノ他翼賛奉公活動ノ強化ニ必要ナル事項」を行うと記されている。事実この壮年団の活動は、翼賛運動の中核として強力に進められ、泣く子も黙るといわれるほど人びとから恐れられたといわれる。これは団員がいずれも中堅的な有力者や活動家によって占められていたことにもよろう。

 ことに政府が呼びかけた翼賛選挙には、率先してこの活動を推進させたが、この理由づけとして、「翼賛壮年団が常に緊密なる連繋を保持し、相提携して之を行ふことは、会及び団の性質上当然である」と述べている。そしてこの実施要綱として、(1)最適候補者推薦の気運を醸成するための協力会議、ならびに市町村常会を開催する。(2)銓衡会の開催を斡旋し、又は内面的にこれを推進する。(3)会や団自体の選挙運動は許されないが、壮年団員が其の資格に於て、特定の候補のため選挙運動を為すことは差支えない。すなわち特定候補者の選挙事務長や選挙委員として活動できる。このほか講演会・座談会・映画・演劇・標語・ポスターなどを活用し、宣伝啓発のための活動を行うべきであるといっている。

 なおこの翼賛壮年団は、本土決戦に備えた「国民義勇隊」の結成により、発展的解消をみたが、南埼玉郡各町村の翼賛壮年団は、昭和二十年六月二十五日、越ヶ谷町役場においてその解散式を行なったのであった。