政府は沖縄戦などの敗走による戦局の重大性に驚き、昭和二十年五月、本土防衛の完備を目標として、全国民を挙げて国民義勇隊に編成させるため、「国民義勇隊令」を発令、五月二十日までにこの組織を完了するよう指示した。これをうけた桜井村役場では、同年五月二十二日国民義勇隊に関する回覧板を各家に廻した。この回覧板によると、〝国土今や戦場化、国民義勇隊の編成運営に就て〟の見出しで、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアルノトキ、全国民挙ゲテ戦列ニ参加スベク、国民義勇隊が組織サレマシタ、本村ニモ部落単位ニ出来マシタ」とこれを報じ、男子隊は国民学校初等科修了以上六五歳以下の者、女子隊は同じく初等科修了以上四五歳以下の者によって編成されるとしている。
しかも状勢急迫し、この地が戦場となったときは、義勇隊は直ちに戦闘隊員に切替えられる。ただし戦闘隊員となるべき者は、男子が一五歳以上五五歳、女子は一七歳以上四〇歳までが、すべて戦闘隊員となる。戦闘隊員の任務は、生産・輸送・築城・防空壕復旧、それに戦傷者の救護にあたる、とある。
この義勇隊の組織は、たとえば桜井村に例をとると、隊員は男子が四八二人、女子は六一九人、この隊長は警防団長兼任の村長が勤め、副隊長には警防団の副団長、幕僚には部落会長や農業会役員らによる七名の者がこれにあたり本部を構成している。その下に七名の警防分団長による七小隊長が置かれ、おのおの定められた数による隊員の指揮にあたることになっていた。すなわち村を挙げて軍隊組織に編成されたわけである。
これら義勇隊や戦闘隊は屯田兵になぞらえられ、働きながら戦い、戦いながら働くことが本分とされており、いざというときは竹槍などで武装する訓練をうけていた。幸い同年八月十五日、日本の降伏によって戦争が終ったので戦闘隊の戦列への参加はまぬがれた。そして同年九月六日、岩槻町久伊豆神社境内で南埼玉郡国民義勇連合隊の解散式が行われ、終りを告げた。