主食の配給

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昭和十五年十一月、政府は「臨時米穀配給要項」(桜井村臨時米穀配給要項綴)を示し、同年十二月以降米穀の配給を実施した。このとき桜井村で報告した要米穀配給者は六三世帯一九四名の非農家であった。これに対し桜井村の割当は米一〇石である。この配給基準は〇(ゼロ)歳から四歳が一日に〇・六五合、五歳から一〇歳が一・四四合、一五歳から六〇歳が一・八合、過激な労働に従事する男子で二・三合であり、平均して一人約一・七合の配給量であった。普通一人一日あたりの主食消費量は三・五合といわれるので、この配給量は必要消費量の半分であったわけである。それでも当時は配給以外にまだ金さえ出せば主食を手に入れることができたので、あまり問題はなかったようである。

 また桜井村には二八軒の菓子製造業者と六軒の煎餅製造業者、それに箱糊付業者が四〇軒あったが、これらに対する特殊用米穀の配給は、菓子業者にはまったくなく、煎餅業者六軒に一ヵ月六斗、箱糊付業者に同二斗の配給であった。このため煎餅業者は、「特殊米少量ニツキ現在殆ド休業ノ状態」となり、箱糊付業者に関しては、「配給糊極少ナル故半数ノミ配給シ、他ハ自家保有米ヨリ捻出セシム」と報告している。さらに付記として、「前記特殊米配給状況ノ通リ、本村ハ従来特殊用米必要者多数有之候共、昭和十五年産米ノ特殊米ノ解除許可ハ、四斗乃至八斗ノ少量ニシテ、業者ノ比較的多キニ反シ誠ニ少量ニシテ配給上支障多ク、毎月ノ如ク業者ノ陳情有之、現在ノ処殆ド休業ノ状態ニ有之候条、カクテハ営業ノ不振ト村内児童ニ与ヘル煎餅モ購入不可能ニツキ、此ノ際可成従来ノ消費三分ノ一程度内ノ増配給相成度」と懇願していたが、特殊米の増配は、その後もきびしさを加えるばかりであった。

 このほか水稲収穫米皆無の者に対しては、米穀の特別配給や、精麦・小麦粉・乾麺類の配給が行われたが、この配給は産業組合や商業組合を通じて行われた。

 ところが昭和十七年二月、食糧管理令が公布され、これにともない食糧公団が設置されて配給の一元化がはかられた。もはや配給以外のヤミ米は処罰の対象とされたのである。そして同年五月配給量の基準が改訂された。これによると一歳から五歳が〇・六五合、六歳から一〇歳までが一・〇八合、一一歳から六〇歳までが一・八合、過激な労働従事者が男三合女二・五合の配給であった。その後昭和十八年には成年男子一人一日二・三合が標準配給量に改められたが、肉体労働者に対しては、第49表のごとく増量配給が認められていた。

第49表 昭和18年2月食糧割当配給基準量(1日当り)
年令 配給量 普通増量 特別増量
1歳~5歳 0.84
6歳~10歳 1.40
11歳~60歳 2.30 男 2.74 男 4.00
女 2.46 女 2.95
60歳以上 2.10 男 2.46 男 3.37
女 2.25 女 2.67

 しかしこの配給をうけたのは非農家ばかりでなく、後には供出米の裸供出で、稲作農家も主食の配給をうけるのが普通となった。たとえばはじめ六三世帯一九〇人であった桜井村の要配給人口は、疎開者の激増で昭和十八年四月には、米作非農家が一六一世帯七六七人に増大していたが、同年七月には七九世帯四九五人の米穀生産農家が要配給人口に加わっている。つまり桜井村ではこのとき主食の要配給人口は二四〇世帯一二六二人に及んでいる。ちなみに桜井村当時の総世帯数は四二九戸、二四二五人であったので、約半数にあたる人びとが配給をうけていたわけである。

 しかもその後桜井村では「近来農耕者ノ自家保有米消費シ終リ、配給申請多キ故、可成増配相成度」とて主食の増配を申請したり、「本年度ノ米収穫状況悪影響ノ結果、本村百%ノ供出完遂ノ為メニハ、別表参拾弐戸ノ農家ニ対シ、二割八分ノ節米ヲナサシメルト雖モ、保有米絶無ノ状態ニ有之候儘、万止ムヲ得ズ即日配給ノ余儀ナキ事情ニ付キ、至急追加交付御配計相煩度、此段特ニ追加申請候、※右三十二戸ハ何レモ一反乃至三反以下ノ農家ニシテ、然モ家族多人数ノタメ此ノ状態ヲ生ゼシモノナリ」とて農家配給人口の追加申請を県に提出しなければならない事態を招いていた。当時主食の配給は、桜井村に限らず、他の農村でも裸供出その他で米作農家が配給をうけるのは珍しいことではなかった。

 だがこの主食の配給も戦局の悪化とともに藷類等による代替配給はともかく、遅配・欠配も珍しくなくなった。したがって十九年五月の桜井村の配給回覧では、〝米の配給を受ける方〟へとして、「今日も明日も節米と代用食励行、定めて御難儀の事と存じます。苦は楽の種、今日の苦しみ明日への勝利、銃後に挺身する皆さんの要求……下意上達……再三再四其の筋へ……昨秋の減収は今にして如実に表れ、次回も農家の方は一日の節減を願はねばなりません、従つて十日分を十一日に、国の苦しさ吾が身と共に」とか、あるいは「再々県に追加申請スレド、無イ袖ハ振レズ、今回モ又普通増量分ヲ一割方ノ節米ヲ農家ノ方ニ願ハネバナラヌ状態デス、何卒国内事情ヲ綜合シ、配給スル九日分ヲ十日間ニ喰延シ方法ヲ考究下サル様オ願イシマス」といった悲壮な文言の回覧さえみられた。

 なお昭和十九年二月二十二日に、全国一斉の国勢調査が施行されたが、このときの国勢調査による埼玉県人口と、同年一月一日現在の市町村報告による埼玉県人口とに甚だしい差異が生じた。このため埼玉県では、「其ノ差異甚シキ市町村ニ於テハ、検討ヲ加ヘ要配人口ノ整理ヲナシ配給ノ適正ヲ期スル」という通達を出している。これは配給を少しでも余分に受けようとした、いわゆる幽霊人口であったかも知れない。