金属回収運動

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昭和十六年八月、政府は資源特別回収に関する通達を出したが、埼玉県ではこれをうけ「最近ニ於ケル世界情勢ノ急激ナル変転ニ伴ヒ、屑鉄及銅等ノ重要輸入物資ノ当面ノ緊迫セル需給状況ニ鑑ミ、現在不用不急及代替可能ノ資源ヲ動員シ、最大限度ニ之ガ活用ヲ図リ国防国家建設ニ充当スルコトハ、刻下ノ急務ナルヲ以テ、鉄鋼製品(鋼鉄製品及銑鉄製品)及銅製品ノ特別回収ヲ実施スルコトヽ相成候」との通牒を発し、資源特別回収要項を配付した。

 この要項によると、回収期間を第一期と第二期に分け、第一期中に完了するものとして、町村や学校など公共施設の窓格子・梯子・日覆支柱・灰皿・屑入・火鉢・水鉢・薬罐・扇風機・ストーブ・鉄柵・手摺・門柱などが掲げられている。第二期に及ぶものとしては、マンホール蓋・桶・水桶・ポスト・給水タンクなどがあった。このため各町村役場や学校等もこれに応じたが、このうち桜井村役場では同年十二月鉄製火鉢三個、釜・鉄瓶各一個、銅の焜爐(こんろ)と消火器各一個、アルミの自転車鑑札四〇〇個、同じく桜井村国民学校では鉄製火鉢二個と靴拭器一個、それに銅の消火器一個を供出した。

 ついで同十二月には、一般家庭の金属特別回収が実施されたが、この回収物件は看板・傘立・喫煙器具・屑入・格子・書箱・バケツ・洗面器台・火鉢・塀・屋根・ヤカン・郵便受・物干・門柱にまで及んでいた。この資源回収運動の実行団体は、部落会・隣組・官公署などであったが、これを督励し監視したのは大政翼賛会、ならびに昭和十七年一月に結成された翼賛壮年団の村内有力者たちであった。たとえば昭和十八年三月の桜井村回覧板では、金属特別回収にあたり、「一戸当リ六貫目ノ割当ナノデ、本村デハマダ/\一戸ニツキ三貫七百匁モ大不足ヲシテヰマス、(中略)何時調査ヲ受ケテモ差支ヒナイヤウ、一物モ残ラズシテ頂キマセウ、二、三日以内ニ翼賛壮年団員等ノ方々ガ譲渡申込書持参旁々、供出オ願ヒニ伺ヒマス」とある。そしてこの譲渡命命に違反すると、国家総動員法第三一条の二が適用され、一〇年以下の懲役または五万円以下の罰金に処せられるという苛酷なものであった。

 こうして全国的に資源の回収が行われたがこのうち関東で抜群の成績をおさめたのは、群馬県の渋川町であった。関東地方事務所のこの報告書(『増林村資源回収関係綴』)によると、「渋川町全町約三千世帯ヨリ回収シタル数量ハ、鉄・銅合セテ二万六千余貫ニシテ一世帯平均八貫七百匁ニ達ス、而シテ此等ノ回収物件ハ、概ネ現用品ニシテ廃品ト認厶ベキモノ甚ダ少ク、又其ノ大部分ハ買上回収ナリ」とあり、このため実施後における町内の景観として、「殆ンド総テノ看板ヲ供出シタル渋川町ノ有様ハ、或ハ二階垣根裏ノ丸見ヘノ所アリ、或ハ取外シ後ノ屋根ノ損壊甚シク、雨雪等ノ場合ニ於ケル困惑ヲ想ハシムルモノアリ、其ノ他隠シテ取外サレテ剥落セル壁、破損セル羽目板ノ醜キ露呈ガ随所ニ散見セラレ、多少誇張ノ言ヲ用ヰシカ、大暴風直後トモ謂ハルベキ景観ナリ、而モコレ遠ク前線将士ノ労苦ニ思ヲ致シテノ挙町愛国精神ノ実践カト思ヘバ、ソゾロ眼頭ノ熱シ来ルヲ覚ユ」と記している。さらに政府は戦局の拡大にともなう軍需物資の不足から、神社仏閣などにおける備品の徴発に乗り出した。このため昭和十八年一月には平方の林西寺をはじめ大泊の安国寺、増林の林泉寺、同勝林寺、増森の東正寺、東小林の東福寺、そのほか越谷地域寺院すべての梵鐘が供出された。因みにこの代金は林西寺の梵鐘が五三五円七八銭、安国寺同三三六円四二銭、東正寺同三四三円五四銭、東福寺同二五七円二一銭、勝林寺同二四八円三一銭、林泉寺同三四七円一〇銭であった。しかもこの代金はいずれも国債で支払われている。なかには天井と釣鐶の間隔が狭かったため、これを撤去できず、あやうく供出を免れた野島浄山寺の大鰐口の例などもあるが、警報用として認められた半鐘などを除き、およそこのとき梵鐘や鉄製銅製の燈籠なども撤去されたのである。さらに寺院によっては銅や鉄による仏像・仏具も供出されたところがある。

供出を免れた浄山寺の大鰐口

 その後金属の回収は二宮尊徳像などの銅像をはじめ街路灯、橋梁、はては火の見櫓(ぐやら)(警鐘台)にまで及んだ。火の見櫓では、たとえば増林村では、鉄製の七台の櫓が撤去され、木製の櫓に替えられている。このほか昭和十八年十一月には、銅銭や銀貨などの貨幣がすべて紙幣の補助貨幣に引換えられたし、新聞紙・ぼろ布・毛糸・ガラス・古綿・毛髪などの廃品も回収された。ちなみに廃品の一貫目あたりの代価をみると、鉄屑二〇銭、古銅三円六〇銭、鉛七〇銭、布八〇銭から二〇銭、毛糸三円五〇銭、ガラス七銭、新聞紙四五銭、毛髪二円などであった。

 これらの資源は、すべて飛行機や軍艦、あるいは軍服等の軍需物資に再製されて、戦争に消費されたのである。