学童の集団疎開

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東京都の空襲が激しくなるにつれ、学童の集団疎開が始った。越谷にも昭和十九年八月二十五日、東京都神田佐久間町佐久間国民学校生徒二六四名が、二名の教員、四名の寮母に引率されて集団疎開してきた。収容先は増林村勝林寺に三年四年の男子生徒六四名、同村林泉寺に三年六年の男子一〇〇名、桜井村平方の林西寺に三年五年六年の女子生徒一〇〇名であった。

 疎開児童の生活状況はつまびらかでないが、林西寺に保存されている疎開児童による「卒業記念」の文集から数例の作文を紹介してみよう。

  疎開して一週間位は、まるで遠足にでもきたような気分でしたが、少したつと家がこいしくなり、誰かが「おかあさん」と寝言をいうと、それにつられて本堂中が「しくしく」泣声であふれました。

  何と幸福なことであろう。お寺さんでは山から木を切って、机・風呂桶・棚・便所を作ってくださった。東京にいれば爆弾や機銃掃射を受けるかもしれない。東京のお友達は毎日おびえて暮しているので、気の毒です。

  うれしい手紙「あっ郵便屋さん」「あたしのは」「あたしのは」あちこちで聞える。手紙ほどうれしいものはない。私を思ってくださる事でいつも埋まっている。そのたびに母の姿が浮かんでくる。

  一番たのしいことは、母が面会にきたときです。悲しいことは、東京から一通の手紙もこない時です。

などとある。親元から離れ、生活環境のまったく異なった寺院に収容されてその日を過ごす児童の、当時の心情の一端が偲ばれるようである。

 これら疎開児童のうち、六年生は昭和二十年三月に卒業し、空襲の激しい東京に帰ったが、残りの児童も終戦とともに帰京した。しかし空襲で家を焼かれ親族を失った一般疎開者のなかには、そのまま越谷に住みついた人びとも少なくなかったが、なかには東京に帰った疎開児童のうち、身寄りを失い、再び越谷に来て当地の住民になった人もいた(高崎力氏提供)。