越ヶ谷高女の学校工場

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昭和十二年の日華事変以後、大学や高等学校生徒は、農村や軍事工場の勤労奉仕へ逐次動員されるようになったが、同十七年戦局が急激に悪化するにともない、学徒勤労動員はいよいよ強化された。しかも学業年限の短縮、徴兵適齢の一年繰り上げ、学徒徴兵延期の廃止など、学徒に対する一連の軍事動員措置が講ぜられ、学徒兵の出陣が始まった。

 この間越ヶ谷高等女学校の生徒は、昭和十七年から農繁期の農村に出動、臨時託児所の開設や共同炊事の手伝い、あるいは堆肥用青草刈の勤労奉仕などを続けていたが、昭和十九年に入ると、軍需生産の低下を補うため、学校そのものが軍需工場に転用された。越ヶ谷高等女学校生徒は、これに先だち、陸軍被服廠野村製靴西新井工場へ実習生として送りこまれていたが、学校校舎の大半は机にかわって各種の機械が設置され、同年八月二十一日から軍靴製造工場の作業が開始された。

 作業は部厚い牛皮をカッターで型抜きすることから始まり、軍靴製造の全工程を消化した。作業自体はそれほど辛いものでなかったが、被服廠から派遣された将校の間断ない監視をうけ、日曜日も休みなく作業を続けさせられた。しかも同二十年になると、牛皮の不足から豚皮が用いられ、ついにはカッターも歯がたたないほど固い鮫皮にかわっていったという。

 やがて終戦近い同年の八月に入ると、越谷地域にもしばしば敵機が飛来、「作業台の下に夢中で腹ばいになり無事を祈ったこともあり、校舎のまわりに作られた防空壕にかけこんで、息をころしていたことも」、度々であったと当時の生徒の一人は述懐している(『越高三十五周年誌』)。