戦時中の小作制度

696~698 / 1164ページ

昭和十三年四月、政府は地主と小作者の対立を緩和し、直接生産者である小作者の生産意欲を高めるため農地調整法を制定した。この制度の要点は、(1)兵役などに徴用されて農地を耕作できないときは、市町村あるいは産業組合、農事実行組合などの団体が農地の管理や耕作を引受け、またこの地を買取る措置を講じる。(2)自作農の創設に関しては、土地の所有者に対し市町村等の団体が土地の譲渡や借用の協議を求めることができる。(3)小作関係については、農地の所有者がその所有権を他人に移転することがあっても、小作契約には影響を及ぼさない。また地主が理由なく一方的に小作契約を破棄したり、契約の更新を拒んだりはできない。(4)小作紛争に関しては、当事者の申請がなくとも小作官自ら調停の申立てをすることができる、などというものであった。

 さらに政府はこの農地調整法の円滑なる運営をはかるため、同年十二月、各市町村に農地委員会を設置させた。ついで翌十四年には価格等統制令によって小作料の引上げが禁止されたが、十五年には小作料統制令が公布され、不当に高いとみなされた小作料は、知事の命令で引下げられる措置がとられた。

 また自作農創設維持に関しては、農地買入資金の貸付も行われた。この貸付利率は年利三分二厘、償還期限は一年据置による二四年間の返納という好条件であったが、この借入れ条件としては、簡易保険の加入者で、現に農業に従事し、自作地の経営を維持できる見込ある者となっている。しかも買収しようとする土地が小作地のときは、その地主の同意を得たる者という制約が付されていたので、自作農創設の成績は決して思うようにはあがらず、その効果は期待できなかったのは第50表にみられるごとくである。すなわち蒲生村自作地小作地の推移面績をみると、十四年度から十五年度にかけては、むしろ自作地が一〇町歩近く減少している。これは全体の耕地面積が減少していることから、おそらく兵役徴用などによる労働力不足からの耕作放棄もあったかも知れない。

第50表 蒲生村自作地小作地の推移
自作地 小作地 合計
昭和2年 76.0 248.6 325.6
4  74.7 265.8 340.5
6  76.1 259.7 335.8
8  77.3 263.7 341.0
10  79.3 262.4 341.7
12  79.3 262.4 341.7
14  79.3 262.4 341.7
15  69.1 267.5 336.6
16  69.1 267.5 336.6
17  62.1 274.1 336.6

 それでも、たとえば大袋村三野宮の農民が、十四年五月、小作地を買収するため地主の了解を得、大袋信用販売購買組合に借用金を申入れたところ、同年六月農地委員会が開かれ、この自作農創設貸付は正当なものとして貸出しが認められている。この結果三野宮の農民は反当り三七〇円の貸付金をうけ、五筆三反五畝二九歩の田畑を買収することができた例などもある。

 ともかく昭和十五年、米の供出制度が実施され、地主も自家飯米を除くすべての米を供出することが義務づけられたが、この供出は小作農が地主に代って行ない、小作農がこの供出代金を地主に支払う仕組に定められた。したがってこのときから小作料は事実上現物納めでなく金納となったわけである。さらに十六年四月国家総動員法の規定にもとづき、臨時農地価格統制令と臨時農地等管理令が公布され、農地や農産物すべてがきびしい国家の統制下に組入れられたが、農業生産者には生産奨励金が交付されるなどの特典が与えられた。

 ことにこの奨励金は、小作農が地主に代って供出した分にも交付されたが、小作農が地主に小作料を支払うときは、奨励金の分はつけなくともよいとされたので、小作料の実質負担率は幾分よくなったわけである。こうして政府は食糧増産体制のもとで、生産に従事しない地主に対しては不利な条件を付したが、積極的に農地を解放しようとする地主は尠なかった。このためでもあろう、十八年の中央農地審議会の通達では、小作農を満州または内地の開発地に入植を斡旋し、この跡地へは村内に居住する他の耕作者にこれを取得させるなど、自作農創設は小作農だけを対象とする必要はない。また地主が自ら耕作する場合は、小作地を返還させることもできる、といっている。成績のあがらない自作農創設に政府は苦慮していたようである。

 なお当時の田畑一反歩当りの平均小作料ならびにその租税をみると、次のごとくである。田一反当りの小作料は二六円四〇銭、畑は九円五〇銭、これに対する地租は田五二銭、畑一九銭、県税地租割が田畑とも一円、町村税地租割が田畑とも三円であった。このほか田畑一反当り、耕地整理費七五銭、水利組合費七九銭、農会費六七銭が徴収されている。