戦時下の産業組合

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日支事変後の昭和十三年、各町村には改めて産業組合法による保証責任信用販売購買組合が設立された。設立の趣旨は、たとえば蒲生村信用販売購買利用四種組合にとってみると、「之ガ活動ニ依リ、事変ニ順応シ、銃後国民一致協力、政府ノ国策遂行上遺憾ナカラシムル為」としているごとく、戦時国策に順応する統制的性格の強いものであった。もっとも蒲生村では大正五年一月、すでに蒲生村信用販売購買組合を設立し、以来その経営を続けてきたが、昭和十二年九月、組織変更の件で内部紛争をきたし、組合を解散させていた。

 ともかく当時の蒲生村主要農産物は、米六二四一石、二〇万九七六五円、大麦四三二石四七五一円、小麦三〇九石六九五三円その他となっており、主要購買品は、肥料一五七六貫、六九六四円、雑貨一万五〇〇〇円などであった。このうち販売見込数量の約七割を組合で統制、購買見込数量の約六割を同じく組合で取扱うとしている。

 また従来組合を設けていなかった越ヶ谷町でも、同年九月同じく保証責任越ヶ谷町信用販売購買組合を設立した。越ヶ谷町における従来の販売購買取引状況は、米穀が町内穀物商、肥料、雑貨は同じく町内各商店による取引が主であったが、組合設立により、購買販売の各数量とも、その五割を組合の取扱いにする予定であるといっている。さらに町内の金融機関は、第百銀行越ヶ谷支店、ならびに越ヶ谷郵便局を利用しているが、組合員の預金や貸付は、この組合を利用するはずになっていた。

 なお、経済統制を目的とするこうした組合は、太平洋戦争後さらに拡大され、たとえば昭和十六年十二月には越ヶ谷町日用品雑貨商組合、同十七年十月には出羽・越ヶ谷鍛冶工業組合、同十七年十二月には、越ヶ谷警察署管内建築組合などが設立され、政府による強力な統制下に組入れられていった。