太平洋戦突入後の各種団体は、一億総力戦の名のもとに、戦時国策の推進に結集された。昭和十八年当時における町村のこれら主な団体をみると、銃後奉公会、在郷軍人分会、大政翼賛会支部、翼賛壮年団、大日本婦人会分会、体力協会、農業報国推進隊、部落常会、男子青年団、女子青年団、男女少年団、警防団、勤労報国隊などがあったが、この多くの諸団体は町村費、あるいは国費の補助をうける国策協力団体であった。
このうち大政翼賛会や翼賛壮年団は中心的な指導役割を果していたが、大日本婦人会の活動も顕著なものがあった。たとえばこの婦人会の諸事業をみると、農繁期の共同作業や出征留守家族への勤労奉仕、遺家族や陸海軍病院の傷病兵慰問、墓地の清掃や武運長久必勝の神社祈願、慰問文や慰問袋の発送、空襲を予想した救護訓練・防火訓練・担架訓練、はては婦人服装の点検や衣料切符の返納運動など、多様な活動を展開していた。
また勤労奉仕を主眼とした勤労報国隊の結成にあたっては、たとえば増林村では男子青年団四小隊一三五人、女子同四小隊一三七人、労務報国会一小隊三四人、一般勤労報国隊一四小隊三四七人、計二三小隊六五三人の編成を整えてこれに備えている。
このほか越ヶ谷町には産業報国会などの組織が置かれていたが、越谷地域当時の主な企業をみると、熊沢機械株式会社越ヶ谷工場、太陽熟練工場、篠原鉄工場、日本加工織布株式会社蒲生工場、越ヶ谷製作所、大沢町原田紙工場、同町第一繊維工場、忍商業銀行越ヶ谷支店、総武自動車越ヶ谷営業所、越ヶ谷自動車有限会社、関東配電越ヶ谷出張所、越ヶ谷倉庫運輸株式会社などがあった。
また戦時下において、郷土玩具の需要は減退したが、それでも桜井村の張子達磨の生産は農家の副業として続けられ、上間久里や大里を中心とした六軒の業者が、農閉期の十二月から二月までに、二万六〇〇〇個の達磨を生産、この出荷額六四四〇円の成績を収めていた。