青壮年層の出征や軍需産業への動員、それに農耕用馬や荷車などの徴発で、農業生産力は極度に低下をみせていた。因みに桜井村昭和十九年の農耕用馬は五頭、牛馬用荷車は二九車輛に過ぎなかった。そこで村々では肥料の自給と農耕用に牛を用いたが、桜井村では四八頭の牛を備えるにいたった。また政府は農業労働力の不足を補うため、学徒を動員して勤労奉仕を勤めさせたが、たとえば桜井村では昭和十八年十月二十九日から十一月三日にわたり、藤原工業大学の学生五〇名の勤労奉仕を受入れていた。
さらに政府は食糧増産隊と称し、村の青年を選抜して内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入所させ、所定の特訓を行わせたが、昭和十八年度の埼玉県の割当人員は一〇〇名、桜井・大袋・荻島・出羽・増林の各村から各一名がこれに参加していた。
この間政府は、軍需物資調達のため、農村に対し、つぎつぎと物資供出の運動を展開した。たとえば軍需造船供木運動、藁工品増産報国運動、ヒマ栽培報国運動等々がある。このうち「ヒマ」はヒマワリの実から油をとるもので航空機用潤滑油の原料となる。増林村ではこの運動にこたえ、昭和十九年二月までに五一五戸の農家が一〇二八キロを軍部に献納した。また藁工品は軍需荷造用の資材となったが、その買上値段は縄一束金一銭、莚や叭二五枚一束で金一銭五厘、菰同一束金一銭という低廉な引取値であったが、埼玉県の生産目標は縄一五〇万貫、莚八〇万枚、叭一〇万枚で各村々へ実情に応じて割当てられた。さらに山林や神社仏閣の樹木が伐倒されて造船用資材に徴発されたのもこの頃であった。