荻島村と新和村にまたがる荻島飛行場の建設工事は、暗号名を「ソヒノコ」工事と称され、東部軍経理部陸軍建技大尉が工場長でこれにあたったが、その施工は主に翼賛壮年団を中心とした近村の勤労奉仕隊によって進められた。
昭和十九年七月、飛行場建設工場長の発した勤労奉仕隊派遣の要請書によると、時間は六時三〇分現地集合で、遅刻者は就労を拒絶することがあるというきびしいものであった。この奉仕隊派遣要請に対し翼賛壮年団は、「事態ハ極メテ重大デアル、サイパンノ全将兵戦死、又大宮島ニ敵上陸、誠ニ重大事中ノ重大事態ナリ、一旦緩急アラバ義勇公ニ奉ズベシノ詔命ヲ畏ミテ、今ゾ我等神州男子ノ本面目ヲ発揮シ、敢闘ニ死スベキ秋ダ」として、各団員の出動を促したが、団員は団服を着用、昼食・水筒持参でこれに参加した。たとえばこの動員数を増林村九月二日をとってみると、男六二人、女四人計六六名であった。
飛行場建設奉仕隊は、地域別に南部・中部・北部に分けられていたが、南部地区九月二日までの出動回数をみると、増林村一二回、新方村一六回、出羽村五回、蒲生村二二回、八条村三一回、八幡村一八回、桜井村四回という成績であった。この工事は同年九月二十日に完工する予定であったが、連続した悪天候その他でいちじるしく工事は遅延した。このため新たに追加工事の施工命令が発せられ、同時に同年十月十日までの勤労奉仕隊の派遣が要請された。なお飛行場建設にともない燃料や爆弾の貯蔵庫が足立郡大門村に設置されたが、これらは実際に使用されないまま、終戦を迎えた。
このほか元荒川通り越ヶ谷町柳原(現柳町)に、昭和十九年越ヶ谷防空監視所が設けられたが、監視員は近辺各町村の青年層から徴用された。この監視員の委嘱を、同じく増林村でみてみると、五名の青年学校生徒がこれに任命されている。勤務はおよそ五日目ごとに一昼夜の勤めであったが、一日一人あたり手当金二円四〇銭が支給されることになっていた。このうち一円六〇銭が国費、八〇銭が村の補助金である。この防空監視所も、終戦と同時に解散式が行われていた。