疎開

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東京都に対する無差別空襲がはげしくなるにつれ、都内からの疎開者が越谷地域にも増大していった。たとえば昭和十九年五月に行われた増林村の疎開者調査によると、増林村の受入れ疎開者は当時一二世帯四五名であったが、同二十年一月には三四世帯一一七名、他に国民学校生徒八九名、乳幼児八三名、妊婦三名、老人一一名、計一八六名の特別疎開人を数えた。

 さらに同年五月には、縁故疎開者八一四名、無縁故疎開者二七一名、累計二一八件一〇八五人の疎開者を数えている。このうち疎開児童は国民学校一年生徒が一六名、同二年四五名、同三年三四名、同四年三一名、同五年二八名、同六年二〇名、高等小学一年一六名、同二年一〇名、合計二〇二名に及んでいた。また一般疎開者の職場の内訳をみると、以前からの職場に通勤する者は男九〇名、女一六名、新たな工場や作業場に就職した者は男二〇名、女二一名、藁工品など臨時作業に従事する者、男一二〇名、女八一名、家事に従事する者男三九名、女二一二名となっている。

 増林村では、しばしばこれら疎開者を集めては懇談会を開催し、配給事項をはじめ地元部落会長との連絡や事務手続きなどを話し合い、その他勤労奉仕班結成の勧奨や、貯蓄組合、保健組合などへの加入をすすめるなど、疎開者の便宜をはかるよう努めていた。しかし疎開者の動向としては、「地元民の同情に対して感謝する気構えが少ない、今少し地元民と親和をはかり、地元民の好意に対しては、感謝と協力の心構えを示すべきだ」と、地方事務所長の調査に対し、このごとき回答をよせていた。疎開者と地元民との感情は、生活上の違いから、かならずしもしっくりはいかなかったであろう。