東京空襲に罹災し、縁故をたよって越谷に疎開した人びとも少なくなかったが、今後空襲の激化により、都内避難者の大挙脱出は必至の状況と想定された。このため東京都近郊農村ではこれに対応し、難民収容の実施要綱を立てて、その準備を進めた。
この要綱の一例を増林村にとると、まずその方針として、「大規模且反復的空襲ニ依ル東京都民ノ避難実施ニ際シ、本村内ニ収容シ、又ハ縁故者アル者ハ縁故先ニ送出スベキ者ヲ収容シ、救護ヲ実施シ併セテ之ニ必要ナル秩序ヲ維持スル」と述べ、都内からの避難者は主として足立区民であり、四号国道を北上した難民は大沢町を経て猿島街道から増林村に至る。その数は無縁故者一四三一人を含め四七六六人に達する、としている。
増林村ではこれら避難者を、増林の林泉寺に三〇〇名、同勝林寺に二〇〇名、増森の東正寺に二五〇名、増森神社社務所に三〇名、増林国民学校に二九九六名、同青年学校に五〇〇名などと割当てて収容することになっていた。この間隣接町村と連絡を保ちながら避難者の整理や誘導、そして収容先での給食や介護などの救済活動にあたるが、この救護組織の統轄者は、防空本部長である村長であり、警防団、学校報国隊、大日本婦人会、部落会、隣組などがその指揮下に入り、戦時災害保護法にもとづく命令によって応急救護につとめることが示されていた。さらに増林村に収容された避難者のうち、縁故先への地方退去者を一八四八人と仮定し、退去避難者の乗車駅を東北本線大宮駅と定めてこれを誘導する措置なども講じていた。