戦没者と戦死状況

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終戦までに戦没が確認された人びとのなかには、靖国神社に合祀された人も少なくなかった。このうち満州で戦没した増林村の「神戸あさ」さんのように、従軍看護婦で合祀された女性もいた。

 戦没の時期は満州事変から太平洋戦争、そして戦病死などで終戦後までその犠牲は続いた。ことに太平洋戦争も末期の昭和十九年から同二十年にかけての戦没者が、そのほとんどを占めているのが注目される。たとえば「蒲生村戦没者台帳」によると、満州事変から太平洋戦争後に至る蒲生村の戦没者総数は、陸軍将兵七〇名、海軍将兵二一名、軍属三名、合計九四名を数える。このうち昭和十五年までの戦没者が三名であるのに対し、昭和十六年後つまり太平洋戦争突入以来の戦没犠牲者が九一名に達する。

第52表 蒲生村年次別戦没者数
年次 陸軍 海軍 軍属
昭和9 1
〃12 1
〃13 1
〃16 3
〃17 4
〃18 4 2
〃19 30 9 1
〃20 20 10 2
〃21 6
70 21 3

 戦没地域は満州を含め中国方面で三三名、フィリピンの二〇名、ニューギニア、サイパン、硫黄島など太平洋諸島での戦死者四〇名などとなっている。また桜井村の戦没者は、八三名を数えるが、戦没時期や戦没地域はおよそ蒲生村と同様である。なかには昭和二十年五月、沖縄本島の戦闘で戦死、あるいは同年八月十二日「中支」で戦死を遂げるなど、終戦直前に戦死した人もみられる。

 因みに蒲生村明治以来の戦没者は、明治十年の「西南の役」で二名、明治三十七、八年の「日露戦争」で八名、昭和九年「満州事変」で一名、昭和十二年、同十三年「日中戦争」で各一名であるので、「太平洋戦争」はいかに大きな犠牲者を出した大戦争であったかを知ることができる。それでは太平洋戦争で戦没された人びとの経歴やその戦死状況の一端をうかがうため、新方村遺族会の書上、「経歴調査」によって数例を次に示す。

 新方村大字向畑出身、海軍中尉浜野清市(当時二四歳)は、昭和十八年九月十三日、三重海軍航空隊に入隊、各航空隊を転属後宮崎海軍航空隊付となり、「昭和二十年五月十八日、沖縄周辺敵艦船雷撃ノタメ、第二区隊一番機トシテ一八四七宮崎基地ヲ発進後、消息ナク、当時ノ情況ニヨリ敵ノ被弾、壮烈ナル自爆ヲ遂ゲタルモノト認定セラル」(復員省ノ通知写シ)とあるので、おそらく浜野清市は、特攻隊の一人として沖縄海上で散華したものであろう。

 新方村大字船渡出身陸軍伍長神田太一(当時二〇歳)は、昭和十五年「北支派遣軍」として中国の現地部隊に入隊、昭和十六年兵長昇進とともに熊ヶ谷飛行学校に入校、「昭和十八年四月、浜松飛行隊ヨリ本部付トシテ、ニユウギニヤニ遠征、以来音信不通、昭和二十一年三月二日、ニユウギニヤニテ昭和十九年十一月五日、壮烈ナル戦死ヲトゲタリト通知ヲ受ケタリ」と記され、その摘要欄には、「百姓屋ノ子ニ生レ、学業小学卒業ニテ、十八歳ニテ自動車運転士、後一ケ年四月デ下士官飛行士デ戦死、親トシテ悔ムコトナシ」と、その悲しみをこらえ、健気な心情を文字に吐露していた。

 新方村大字向畑出身、陸軍歩兵兵長浜野乾一郎(当時二六歳)は、昭和十四年三月に応召して満州黒河省木場田隊に入隊、昭和十七年五月帰還したが同十九年六月再び応召、硫黄島警備隊に派遣され、同二十年三月、「敵ノ艦砲射撃、連続ノ空襲ヲ受ツヽ上陸ヲ阻止(せしも)、吾飛行場ハ攻略サレ修羅ノ巷ト化シ、音信ハ絶へ、猛攻撃ニヨリ反撃ノ効ナク弾ハ尽キ将兵ハ倒レ、人力不動ノ抵抗ノ限リヲ尽シ、夜ハ捨身ノ切込作戦ニ出、三月十七日最後ノ戦闘奮戦力闘戦死ヲ遂」げている。

 新方村大字向畑出身、工兵兵長横川清秀(当時二五歳)は、昭和十五年十二月十五日「北支派遣軍部隊」に入営後昭和十八年四月東部ニユウギヤに派遣、「其後熾烈ナル銃撃下ニ在リテ〝アレキンス〟〝ウエワク〟飛行場ノ設定、及ビ道路・橋梁ノ構築、其後昭和十九年三月十七日、愈々切迫シタルモ〝ウエワク〟ニ残留、海上転進スベク船便ヲ待機中、昭和十九年四月二十二日、聯合軍〝ホルランヂヤ〟〝アイタベ〟上陸致シ、部隊主力連絡モ絶ユ、同地附近ノ警備及ビ陣地構築、八月以降糧秣杜絶、生活困苦ノ為約三里奥地ノ〝セビソク〟〝ビリンガ〟〝バルワ〟ニ自活、然ルニ薬物不足ニナヤマサレツヽ、尽忠ノ義ニ徹シタルモ力及バズ、昭和二十年七月十二日〝エリヒネ〟ニ於テ戦死ス」とあり、連合軍上陸の昭和十九年四月から終戦を目前にひかえた同二十年七月まで、実に一年有余にわたり、ニュウギニアのジャングル地域で孤立したまま苦闘を続けていた兵士の悲壮な状況が、この記事からも端的に窺われるようである。

 新方村向畑出身、陸軍衛生兵長戸田元吉(当時二五歳)は、昭和十九年八月応召、「比島レイテ島の戦闘に参加の為、レイテ島オルモツクに上陸し、交戦すること五十余日に至る。同年十二月二十一日夜、〝リモンノ〟戦場離脱、〝ポクアホノ〟〝バカカイ〟〝ダオリ〟を経て翌二十年一月一日〝カンキポツト山〟に到着し、諸隊と共に集結す、以後同地に於て自活自戦、永久交戦の方針に従つて、〝バリテイ〟〝アビハオ〟間の海上方面守備中の所、〝セブ島〟方面の戦闘至厳を極め、当隊の残留部隊とレイテ間の連絡杜絶なし、間もなく終戦となり、米軍により収容されたる人員五十余名となる。爾後も引続き米軍の協力による捜索するも、レイテ島の日本人なしとなり、昭和二十年七月一日戦死認定となり、昭和二十二年十二月十一日遺骨受領する」

 新方村大字船渡出身、陸軍技師新方武夫は、日本大学高等工学部夜間部三ヵ年修業後、「昭和十七年十二月二十三日、軍属として米川部隊へ入隊、昭和十八年五月十五日、米兵熱津島旭湾より上陸、三日二昼夜に亘り激烈なる戦闘を交へたるも衆寡敵せず、遂に刀折れ玉尽きて山崎部隊長以下二千五百有余の勇士と共に、衆天の恨を呑んで北海の孤島に玉砕せり」

 新方村大字大吉出身、陸軍兵長小林茂登吉(当時三〇歳)は、昭和十九年六月に応召されて同年八月フィリピン島マニラに派遣「マニラ着後二カ月経過、セレベス島ニ向フ途中、海上ニ於テ敵機ノ攻撃ヲ受ケ、目的ヲ変更シセブ島ニ上陸シ、間モナク敵レイテ上陸後、増援軍トシテレイテ島ニ上陸、戦闘ニ従事、二十年三月十七日、〝カンポツトギウト山〟ノ戦闘ニ於テ戦死ス。昭和二十三年八月一日遺骨帰還ス」

 以上新方村遺族会の「経歴調査」によって、同村出身戦死者の経歴と戦死状況の数例をみてきたが、出征将兵の戦地における動向の一端がこれによって窺うことができる。また将兵の派遣された地域も、同じ村の出身であっても、北はアッツ島から南はニューギニアまで、多方面に分散されていたことを知ることができた。

戦没者の村葬(出羽村)

 また米軍による東京空襲の際、これを迎え撃った日本航空隊の戦闘機が、越谷の地に墜落し搭乗員が戦死を遂げた例もある。昭和二十年四月七日、本土を襲ったB二九をよう撃した柏(現千葉県柏市)航空戦隊五式戦闘機数機は、米軍機と空中戦を展開させたが、このうち一機は越谷上空で爆破、新方村大吉の耕地に墜落した。新方村ではこの搭乗員の遺骸(なきがら)を大吉の徳蔵寺で火葬に付し、遺骨を所属部隊に引渡した。その後昭和四十七年二月、大吉の地で戦死した搭乗員の身元調査のため、墜落現地の捜索が実施されたが、発見された遺品によりこの航空隊員は福井県福井市の平馬康雄であることが確認された。