太平洋戦争の終結

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広島・長崎の原爆投下や、ソ連軍による満州(現中国東北部)侵攻を契機に、昭和二十年八月十四日、日本はポツダム宣言の受諾を連合軍に通告して降伏した。翌八月十五日、天皇は戦争の終結をラジオを通じて広く国民に告げた。この日早朝からのラジオ放送で、正午に重大放送があることを知らされた人びとは、それがどんな内容のものか不安のまま正午を迎えた。君が代の音楽についで、「堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ビ難キヲ忍ビ」と、はじめて聞く天皇の声がラジオから流れてきた。雑音の多いきわめて聞きとれぬ放送であったが、これで人びとは日本が戦いに敗れたことを知った。

 それぞれが親や子、兄弟、あるいは友人達を戦争で失い、さらに戦災で多くの同胞を失いながらも、ひたすら勝利を信じ、これら大きな犠牲に耐えしのんできただけに、人びとはこのようなかたちで戦争が終了するとは予想していなかったのである。それだけに多くの人びとは強い衝撃を受け、なかには虚脱状態に陥る人も少なくなかった。『越ヶ谷高等学校創立三十五周年記念誌』のなかで、同職員の一人は次のような回想を寄せている。

  放送を聞いた二、三の先生方が、「何だ無条件降伏じやないか、馬鹿々々しい」と言いながら職員室へ帰つて来たことを覚えている。この時を転機として日本中のすべてのことが大きく変つた。私も暫らくは虚脱状態のまま何ヶ月かが慌しく過ぎていった。

と当時の状態を語っている。それでも若い世代である生徒のなかには、この終戦を内心喜んでもいたようである。同じく記念誌のなかの卒業生の寄稿には、

  終戦の年の八月二十日でしたかしら? 米軍が厚木の飛行場に空から進駐してきた日のことです。もう爆弾も落さずに低空飛行して来た米軍機に、〝ワーツ〟と歓声をあげて窓から手をふった時のことでした。いきなり足音高く二階へかけ上って来たS先生が、「馬鹿者! 日本刀でぶった切ってやるぞ!」とどなったのです。「幾日か前までは、あれほど米英撃滅と誓つて敵を憎んで来たお前達ではないのか! 家を焼かれ親兄弟を失った者だって大勢いる筈ではないか!」と、泣いてそう仰言った先生のことが、とても忘れられないことです。

と述懐している。米(アメリカ)軍機に手をふって歓声をあげたこのときの生徒たちの心情は、いつわりない心からの安堵感であったろう。

 ともかく日本降伏によって連合軍の日本進駐が目前の事実となった。八月十八日から連日米軍の偵察飛行が行われ、八月三十日連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。九月二日には東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印が行われ、同時に米軍を主力とする連合軍の大規模な本土進駐が開始された。この連合軍進駐に際し、その恐怖と不安のあまり、「婦女子は絶対に外へ出すな」「時計や物品はかくしておけ」「米軍とは口をきくな」等の事項を協議する町村会などもあった(『羽生市史』下巻)。

 埼玉県下では、九月十三日に熊谷飛行学校へ一万二〇〇〇名の連合軍将兵が進駐したのをはじめ、朝霞・所沢・豊岡などの旧陸軍施設が相ついで接収され、県内各地で進駐軍将兵の姿が目立って多くなった。このため埼玉県警察部・越ヶ谷警察署、ならびに各町村役場においては九月十日、県民と進駐軍との間で、誤解による紛争、または接触上摩擦などの発生があれば、その影響すこぶる大なることを憂慮して注意を促したが、ことに元軍人・軍属らの所持する拳銃その他武器類の届出督促を回覧板で徹底させるよう努めた。たとえばこの回覧には、

  今回の休戦に依り、全国にわたり陸海軍部隊の解除、又は召集解除せられた軍人軍属等の人で、拳銃・機関銃・弾薬等、危険(あぶ)ない物を持帰り、ひそかに持つて居る人があるそうですが、之はその動機がどうであろうとも、一般の人の持つことは規則で禁じられ、殊に現下の時局にその様なことがあると、聯合軍の信用を失ふばかりでなく、却つて悪い結果を招くことになります。お互は国体護持の為この重大時局をよく認識し、この際その様な危険(あぶ)ない物を持つて居りましたら、直に最寄の憲兵隊・警察署(駐在所)へ届出で、一日も早く平和の日を迎へる様お互に努力しませう。

と記されていた。ついで連合軍は元軍人等のほか一般民間人の武器類所有を禁止し、とくに認可した一部武器類を除いてはすべて提出することを求めた。

 この措置につき、たとえば出羽村七左衛門では一〇名の村民が、日本刀一一振、仕込杖一振を米軍に引渡しているので、越谷地域全般では、その武器引揚数は相当な数であったとみられる。このほか「木刀・木銃・木製ノ薙刀ノ類ハ、切断又ハ焼却セラレタイノデアリマス」との越ヶ谷警察署からの通告で、木製の武器類も大方は処分されたようである。