また進駐軍将兵との接触については、越ヶ谷警察署や町村役場から次のような回覧が廻された。
最近進駐部隊将兵の出入が激しくなつて参りましたが、之等の進駐部隊将兵と密(ひそか)に物と物との交換を為し居る我欲の強い人が居る様に聞いて居ります。日本人は飽く迄正しい日本人として進まなければなりません。若しも斯様(かよう)な不心得の者が一人でもあるとするならば、日本人全体の真意を疑はれることになりますから、お互ひ慎しまなければなりません。若し不心得者があつて交換した品物等を持つて居ることが解りますと、取り上げることになつて居りますので、お互ひ隣組同志で注意し合い、不心得者の出ない様注意致しませう。
と、進駐軍将兵との物々交換をいましめていた。ことに越谷地域には、十月十一日から荻島飛行場跡に、数百人の連合車が進駐してきたので、進駐軍と住民との接触は頻繁であった。このときの越ヶ谷警察署長による各町村長宛に出された情報では、「聯合国軍隊約四〇〇名ハ、昨十一日夕刻、管内荻島飛行場ニ進駐、更ニ今明日モ引続キ進駐ヲ見ル予定、何時如何ナル命令要給(求)アルヤモ図リシレズニ付、ソレソレ適当ノ準備協力 頓(ママ)ヘオカレル様御申進候」とある。
これにともない米軍物資の輸送車や、進駐軍自家用車の往来が激しくなったので、子供の道路遊びに対しては、交通事故の注意の回覧が廻されるほどであった。すなわち「最近一般自動車並ニ進駐軍ノ自動車ノ往来激シクナツテ来テ居リマス、之ガ為メ各地ニ自動車事故モ漸次多ク、此ノ原因ハ子供ノ道路デ遊ンデ居ルコトガ最大ノ原因ニナツテ居リマス、此ノ際各家庭デハ子供ノ道路遊ビヲサセナイト共ニ、自転車其ノ他ノ物ヲ放置(オカ)ナイ様特ニ注意ヲ願ヒマス」とある。
また荻島飛行場進駐将兵の、営外におけるその行動の一端を、『越ヶ谷高等学校創立三十五周年記念誌』のなかから掲げると次のごとくである。
越ヶ谷(荻島)飛行場へ米軍が進駐してきた。歴戦の部隊だそうだが品位のひくいえげつない態度の兵士だった。町へ出て時折り町民とごたごたを起している。だから学校は最大限の警戒をしなければならなかった。ある日数人の兵士が学校へ来た。校舎内へ入れまいと急いで庭へとび出て応待したら、バスケツトボールを貸せと、割合に丁嚀なそぶりで申し込んできた。もんちゃくを起すと面倒だから二個渡してやった。隊内の様子を偵察する目的で飛行場を訪ねたら、案外簡単に中へ通してくれた。内部は不整頓で物資も不自由らしかった。労働服の修理を頼みに来たが、一度だけ応じてあとはうやむやに断ってしまった。学校の近くでドカンドカンと狩猟をやっている。生徒は危険で仕方ない。頼んでも云うことを聞かないから、一策を考えて猟の案内話をもちかけ、瓦曾根の水門の辺までつれて行って撤いてしまった。一目散に学校まで逃げ帰った。ある日本人が米軍の兵士をだしに使って、禁猟区内で大いばりの猟をやったらしい。日本人でありながら悪(あく)どい奴だと憤慨したがどうにもならない。やがて久伊豆神社境内へ山と積まれた大量の渡河用舟艇がどこかへ運ばれ、駐留軍も帰ったので、町の雰囲気が多少静かになった。次々と出征軍人が帰国するが、凱歌などはあがらない。みすぼらしい軍服でこそこそと駅から消えて行く。
これによると連合軍の越谷駐留は短期間であったようであるが、この間の様子の一端を窺うことができる。なお現在国の天然記念物に指定されている「シラコバト」は、これら進駐軍などの乱獲で、一時絶滅に頻したこともあったといわれる。