復員と引揚者

721~723 / 1164ページ

凱歌もあげられず「みすぼらしい軍服でこそこそと駅から消えて行」ったと、敗戦によるいたましい帰郷の様子を表現された元軍人の復員は、終戦直後の八月二十日より、まず内地兵から始められた。そして同年九月二十日までに全国内地兵二二五万人の約七二%がそれぞれの郷里に復員した。

 越谷地域では、たとえば新方村出身の海軍兵士二八名が、八月二十二日から九月二十一日までに、横須賀などから早くも帰還している(復員者カード)。しかし外地部隊の軍人・軍属は、同年九月十一日、復員局よりその引揚げは三ヵ年はかかるだろうと発表されて、その安否が気づかわれたが、連合軍の好意により、南方メレヨン島からの第一陣一七〇〇名が、九月二十六日海軍病院船高砂丸によって送還されたのにはじまり、二十二年十月頃までには、ソ連地区を除きその大部分の引揚げが終了した。一方満州で終戦を迎えた関東軍将士は、二十年九月頃から鉄道輸送でソ連国内の収容所に送られて強制労働に従事させられたが、二十一年十二月八日から内地送還が開始された。

 こうして昭和二十三年九月現在、たとえば川柳村の復員者は、第1表のごとく二四三人に及んだ。この間無事な復員者を迎えて喜び合う家族にまじり、戦争の傷跡もいたいたしい傷夷軍人の姿もみられた。埼玉県連合傷痍軍人会支部に名を載せたこれら元軍人は、増林村だけでも一一名に達した。

第1表 川柳村復員者(昭和23年9月)
復員地 人数 職業別内訳
ソ連 20 農 19 商 1
南方 72 農 72
中国 91 農 83 商 5 工 3
満州 24 農 23 商 1
その他 36 農 34 商 2
243

 またなかには戦死公報を手にして悲しみに沈む遺家族も少なくなかった。この戦没者に対する葬式は、二十年末頃まで町村葬によって執行されたが、それ以後は県の指令によって中止され、各家庭によって執行された。ことに終戦直後は、外地からの遺骨送還が夥(おびただ)しい数にのぼったので、その遺骨は各地域ごとに特定の場所で定められた日時に一括して引渡された。このため列車の一部車輛に遺族専用車が備えつけられたりした。遺骨の引渡し場所は、たとえば南埼玉・北埼玉・北葛飾の三郡にあっては久喜町の甘棠院、浦和・大宮・川口それに北足立郡は浦和市の玉蔵院などであった。

 また終戦前まで外地で生活していた一般人も少なくなかったが、こうした人びとも外地での諸権益を奪われ内地に引揚げてきた。この引揚者を川柳村でみてみると、南方から一家族、中国から四家族、朝鮮・台湾から四家族の九家族を数えるが、引揚後の職業は農業六人、工業二人、会社員一人となっている。村役場はこれら引揚者対策として、臨時に寺院を住宅に開放したり、物資の特別配給を行なっていたが、その生活の立直しは無からの出発であっただけに、困難をきわめたようである。