インフレーションと封鎖預金

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政府は戦争に敗れても、軍需会社に対する支払いを中止しなかった上に、終戦処理費の大幅な支出を計上したので、日本銀行の貸出額が激増し、日本銀行券の発行はうなぎ上りに増大した。敗戦直前の八月十四日の通貨額は九三億円であったのが、同年八月末には早くも四二三億円に達し、翌二十一年二月には六〇〇億円を突破した。

 このとめどもないインフレの昂進に対し、政府は通貨対策によって経済の安定をはかろうとし、昭和二十一年二月十六日、金融緊急措置令を公布した。この法令は金融機関に預けられた一切の金銭の支払いを原則として停止したものであったが、同時に各人が所有した手持現金を「日本銀行預入令」によって強制的に預金させた。これを〝封鎖預金〟という。このうち国民一人につき生活費として金一〇〇円の新紙幣が手渡された。しかも従来からの旧紙幣に対する通貨期日は、同年三月二日限りと定められ、新旧紙幣の交換が指示されたので、これは国民にとっては強制的な預貯金の督促でもあった。

 この間預貯金の引出しは、月間世帯主が三〇〇円、その他家族一人あたり一〇〇円以内に限定された。また賃金や俸給の支給は、一人あたり五〇〇円を限度とし、これを超過した分はすべて封鎖預金に組入れられた。ただし事業主については必要に応じ、とくに封鎖預金の引出しが認められた。なお紙幣の切換え当初は、新紙幣の印刷が間に合わなかったので、切手の半分ほどの大きさの証紙を発行し旧紙幣に張って新円にみなすという応急的な措置もとられた。

 この金円の封鎖により、日銀券の発行高は、同年三月二日には一五二億円に縮少し、インフレの破局化は一応回避されたものの、手持現金の強制預け入れや、払い出しの制限で人びとは極度の耐乏生活を余儀なくされた。しかし一時は縮少された通貨も、その後再び増大しはじめ、同年十月末には七五〇億円、翌二十二年には一〇〇〇億円を突破してインフレはいよいよ昂進した。