戦後の配給

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公定価格による主食の配給は、はじめ一日一人二合三勺であったが、二十一年十一月には二合五勺に引き上げられた。しかし配給された主食の大部分はいも類や大豆それに輸入放出食糧で、米は僅かな量であった。しかも配給の遅配や欠配が続き、その日の食糧に窮した家では、雑炊や野菜汁のほか雑草まで摘んで食べた。そして食糧の買出しで衣類や家財道具まで物々交換する〝たけのこ生活〟を余儀なくされたのである。

 昭和二十三年一月、主食差引で砂糖一人あたり米一日分の代替食糧として三〇〇グラム金四円九〇銭で配給が始められた。食糧に困った人びとは、配給砂糖を貯え、砂糖一斤を米二升と交換してようやく露命をつないだ。同年六月、占領軍総司令部は戦後初めて外米の輸入を許可した。そこで政府は端境期の配給事情を緩和させるため、エジプト米二六万五〇〇〇石を輸入した。こうして終戦以来はじめて二合五勺の主食満配を行なうことができた。同年十一月には二合七勺の配給に引上げられた。また同年七月からは、預金封鎖も全面的に撤廃され、ようやく終戦直後の混乱からぬけだすきざしがみえだした。

 この間越谷地域は農村地帯であったので、食糧事情に関しては、消費人口の密集した都会と異なり、大きな混乱はなかった。それでも農村内の要配給人口は、たとえば昭和二十二年二月に行なわれた増林村の「人口調査」によると、増林村全戸数八七二戸のうち農家が五五五戸、純消費者は三二七戸となっており、主食要配給人口は、純消費者三二七戸一二〇三名、農家七戸四三名、計三三四戸一二四五名に及んでいた。

 ことに桜井村では、二十年十二月の食糧配給者数は、純消費者三一〇戸一一八八人、農家ならびに地主七五戸三七五名、計三八五戸一五六三人が食糧の配給を受けていると報告している。当時の桜井村の人口は、二十一年十月の調査によると、非農家八六五名、農家二二二六名、計三〇九一名であるので、実に半数の人びとが主食の配給を受けていたことになる。もっとも米穀生産者でも不作を理由に主食の配給を申請することは珍しくなかった。たとえば桜井村で水田反別四反歩、家族八名の一農家は、「耕作四反歩ナルモ、総反別トモ不良ニシテ食糧甚敷困難、御推察ノ上配給相成度右御願候」とて配給方を申入れている。

 このほか実際は生産農家であっても、畑作などを理由に純消費者の扱いをうけるなど、要配給人口の資格に混乱があったようである。このため埼玉県経済部長の通達「農家の意義について」(『桜井村庶務関係書類綴』)などにみられるごとく、要配給農家の定義づけが行われることもあった。すなわち、

  農家とは、世帯員中農業を営むものある世帯をいふのです。即ち世帯主が農業を営んで居れば其の家は農家として調査客体となるわけです(中略)しかしながら主要食糧の配給対象として農家を調査する場合には、特に左の点を考慮して戴きたいと思ひます。

  (1)手間つくり程度に営むものは非農家として取扱ふこと。

  (2)不耕作地主(手間つくり程度の耕作地主を含む)は非農家として取扱ふこと。

  (3)主要食糧(米・麦・甘薯・馬鈴藷等)を栽培する農家と、右の外の農家とは区別して調査をしておくこと。

とあって、耕作反別の少ない農家、それに野菜・養蚕・養蜂・養牛・養鶏など、主食以外の作物の栽培者や畜産者は非農家、つまり純消費者の扱いとするなど、要配給者の基準が示されていた。

 その後要配給者の資格基準はきびしくなったようで、たとえば桜井村昭和二十二年三月の主要食糧人口調査では、総人口三一一〇名のうち要配給人口は純消費者七〇一名、生産農家および地主一八二名計八八三名で、二十年十二月に比べると約半数近くに激減している。これには「食糧の配給について」という埼玉県経済部長による不正受配防止の通達が効果をあげたのかも知れない。すなわちその通達は、

  生産農家にして米麦等、主要食糧の保有者が要配者となる場合に於ては、農事実行組合長・部落会長・農業会長の証明、並に食糧需給台帳による市町村長の認定にて配給を実施し来りたるも、最近巷間の噂によれば、一部農家が保有食糧あるにも不拘(かかわらず)配給を受け居る哉(や)に聞き及びたるが、斯くては現下の食糧事情に鑑み、詢(まこと)に遺憾に存ずるを以て、今後充分御留意の上配給の適正を図られ度(たく)通牒する。

というものであった。ともかく農村における要配人口の適確な把握は困難であったようである。だが要配人口として登録されても、その配給は都会と同じく、わずかな米に甘薯・精麦・小麦粉を主とした綜合配給であった。しかもその配給さえ遅配になることが多く、桜井村ではしばしば「右人数ハ一人の幽霊者モナク申告セルモノナリ、現物本日迄未ダ入荷セズ、為メニ当月未配中」なりとて、速やかな配給の実施を要請していた。二十一年九月現在の桜井村の配給量は、米にして一三八石の配給であったが、二十二年三月には八八石に減少した。

 このほか多くの農家は、味噌や醤油の不足にともない自家醸造で賄っていたので、味噌・醤油の配給をうけない家もあった。たとえば二十二年三月の増林村総人口五〇二六人中、味噌の個人醸造によるもの三二五〇人、要配人口が二七七二人と、半数以上が味噌の配給をうけなかった。さすがに醤油の自家醸造は大仕掛な設備を必要としたので、醤油の要配人口は四六五一人であったが、それでも自家醸造人口は三七六人を数えた。なかには埼玉新聞二十二年七月の報道にみるられるごとく、各自の農家が原料を持寄り、醤油の共同醸造をはじめたという大袋村の例などがあり、配給の不足を補うため種々な方法が考えられたようである。

 また終戦直後は食糧事情の悪化のみでなく、すべての物資が欠乏していたため、政府は生活用品統制令を布いて国民に耐乏生活を強要した。この統制令に該当する品目は、繊維製品をはじめ、地下足袋・靴・履物・電球・石けん・塵紙・ローソク・燐寸(マッチ)・バケツ・弁当箱・湯沸・鍋・釜など、日用の必需品すべてに及んだ。このうちマッチの配給は、はじめ一人一日あたり三本であったが、マッチ株式会社東京支店は、二十一年末頃にはマッチの生産高は年産二〇万トンになり、一人一日四本あての配給ができるだろうと発表していた。このマッチも二十三年九月には、八年ぶりで自由販売となったが、琉黄が鼻をつく粗悪なマッチがしばらくは店頭から消えなかった。また、たばこは一カ月あたり男子が一二〇本、女子が三〇本の配給であったが、二十一年一月からピース一個七円、翌二月にはコロナ一個一〇円で、日曜・祭日に限り自由販売となった。その後二十二年十一月には、ピースとコロナは一〇本あたり五〇円、新生が四〇円に値上げされ、配給量は男女とも五〇本宛になった。同時に自由販売のたばこが店頭に姿をみせ、しばらくは配給と自由販売の二本立が続いた。

 電力事情も一時は極度に悪化し、二十一年から二十二年にかけては停電が日常化していた。東京電力会社の説明によると、この電力不足は、渇水のためと肥料工場など重要産業への重点配電によるものであるといい、二十二年一月には、隔日停電まで行なわれる文字通りの暗い世相であった。