供出督励

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昭和二十二年九月のカスリーン台風による災害の影響で、埼玉県の稲の収穫高は、一〇四万一三六一石と前年度一四一万三〇八四石の実収に比して、三五・七%の減収であった。ことに北葛飾郡の稲作被害はもっとも大きく、前年度二一万五七七六石の実収高にくらべ、僅かに二万八二二二石、実に八七%の減収であった。越谷地域を含む南埼玉郡においても、二〇万〇〇〇四石と、前年度二四万九〇五四石に対し、約二〇%減の収穫であった。

 ちなみに越谷地域各村々の昭和二十一年から二十三年までの三ヵ年の稲作実収高を掲げると第6表のごとくである。これによると、被害の大きかったのは、増林村の前年比七四・四%減、大沢町の七〇%減、新方村の六六・四%減、桜井村の三九%減、越ヶ谷町の一一・五%減の順であり、およそ元荒川以東の地域の減収が目だっている。逆に元荒川以西の荻島・出羽・蒲生・川柳・大相模の各村は、前年度にくらべむしろ増収となっているので、その被害も地域によって大きく異なっていたようである。

第6表 越谷地域稲作実収高
村名 21年度 22年度 前年比 23年度
桜井村 5,851 3,574 △39 5,612
新方村 6,467 2,172 △66.4 6,267
増林村 9,349 2,393 △74.4 9,370
大袋村 8,270 5,154 △37.6 8,249
荻島村 8,048 8,324  3.4 7,499
出羽村 11,572 12,775  10.3 11,527
蒲生村 6,762 7,189  6.3 6,491
川柳村 9,384 9,543  1.6 8,400
大相模村 9,074 10,274  13.2 8,924
越ヶ谷町 1,156 1,022 △11.5 1,100
大沢町 2,415 725 △70 2,218

(埼玉県統計書)

 ともかく被災地域の農民に課せられた当年の供米割当ての納入は、もっとも苦しいものとなった。第7表でみられるごとく、供米の割当て高は実収高に比していかに苛酷なものであったかを知ることができる。しかもこの供出促進に関しては、その督促はきびしく、同年十一月十四日、翌二十三年一月十七日の二度にわたり、埼玉軍政部司令官ライアン中佐ならびに西村埼玉県知事が武里小学校などに来校して講演を行うなど、当局の力の入れようは想像以上であった。

第7表 越谷地域供出米の成績
村名 実収高 割当数量 供出量 代替含供出量 割合
桜井村 3,574 2,636
新方村 2,172 1,990 8 46 2.3
増林村 2,393 1,824
大袋村 5,154 4,506 725 764 18.5
荻島村 8,324 5,023 3,851 4,123 74.6
出羽村 12,775 8,554 5,850 6,112 71.5
蒲生村 7,189 4,154 2,755 2,982 71.8
川柳村 9,543 5,560 4,035 4,207 75.5
大相模村 10,274 6,560 4,275 4,507 68.7
越ヶ谷町 1,022 460 314 362 78.6
大沢町 725 161

(昭和22年1月10日現在)

 しかし越谷地域村々の供出納入量は、一月十日現在第7表のごとくであり、越ヶ谷町の七八%を筆頭に川柳・蒲生・出羽・荻島各村の七〇%台、大相模村の六〇%台、その他水災地である大袋村が一八・五%、新方村が二・三%であったが、桜井・増林・大沢の各町村は当時納入実績は零(ゼロ)であった。これに対し県知事から一月十九日、連合軍より重大命令を受けたとして、供出不良町村に左の電文が達せられた。「本日米・甘藷供出ニ関シ重大命令ガアリ、万難ヲハイシ一月末日マデニ完遂スルヨウ期セラレタイ」。

 これを受けた町村役場や農業会では、「吾国の食糧需給事情は、需要の面に於て本年割当数量を全部完納済になりましても、尚一二〇一万五〇〇〇石の不足を来し、一八〇万二〇〇〇噸(トン)に相当する食糧は外国からの輸入に依存しなければならない事情があります。今年度の世界の食糧不足は一八〇〇万噸に達し、日本が要求する一八〇万噸確保は極めて困難なる事情にありますので、是が輸入を懇請するには、是非共国内の供出の完納が必要条件とされます」として、各農家に完納の呼びかけを行なった。

 しかし水害の打撃に生活の不安を感じていた人びとは、すぐには供出に応じようとはしなかった。このため県は二月に入ると、供出に応じない者は、その事情により食糧緊急措置令に基づく強制収容も止むを得ないものと決定したとして、

 (1)供出に協力しない悪質農家を調査報告すること

 (2)右の選定は食糧調整委員会の決議によること

 (3)強制収用に依る石数は、町村の供出成績に算入されないから、出来るだけ自発供出すること

という強硬な通達を出した。この通達をうけた町村は、少なからぬ反撥を感じたようで、たとえば桜井村役場の「オシラセ」の回覧には、〝丸裸供出・完納期限二月十日まで〟の見出しで県知事の通達文を載せ、「目的完納しないと、配給米が県より入らぬ上に、強制収容とは、自醒・自党」と皮肉な文を注記していた。続いて二月五日の「お知ラセ板」では

  供出! 水害地は丸裸供出をしなければなりません。速やかに供出を!

  裸供出とは、収穫した米は屑米に至るまで全部供出して戴くことです。

  実収高に対する供出割当量は格別に多く、誤(理)解に苦しみますが、静に考へる時、割当量が完納しなければ国民ひとしく飢餓の状態に陥ることは火を見るよりも明らかなことは、ドナタも百も承知。水害地に裸供出完納、そして還元配給。出来る限りの供米をして配給を受けるがアナタの得策。ドウセ今年は保有米の持てぬ悪運年。

  一日々々と供出促進運動は厳重となり、本月九日までの供出成績によつては、断乎強権の発動と聞く。只今皆サマの御理解を願ひ云々。

と書き記している。また別な「お知らせ」の回覧には、「ジープは飛んできた! 皆さん何故供出しないのか! 一にも二にも裸供出完納! 出なければ出る様にしますゾート」というように辛辣なことを記したものもあった。

 こうして執拗な督促をくりかえして完納をせまる軍政部と、ないものは出せないと供米に消極的な農民との対立が続いたが、同年三月四日付桜井村役場の「報告と掲示」の回覧文によると、桜井村は不良供出村の烙印がおされたようである。

供出回覧板

 すなわち回覧文中裸供出の命令電文として

  埼葛事務所ノ記録ニヨレバ、貴村二十二年産米供出ハ二月二十九日現在三六%デアル。貴村完納ノ失敗ハ、貴村ト同ジ程度、或ハ以上ノ困難ガアツタニカカワラズ完納シタ県下何百何千農民ノ苦心ヲ裏切ルモノデアル。本官(ライアン中佐)ニトリ、全県百%供出ノ外満足スベキモノナシ。直チニ完納ニ対スル速急ノ手段ヲトラレヨ。完納次第返電セラレタイ。埼玉軍政部司令官ライジユ・ライアン

 このライアン中佐の電文に続いて、「三月五日午前十時、県庁ヘ出頭セラレタイ、供米成績不良ナルハ甚ダ遺憾ナリ、最大ノ誠意ヲ以テ完納ニ努力サレタイ」との西村埼玉県知事の電文を掲げ、「右三日付を以て皆サン農民へ矢の督促。連日連夜の供米問題集会。百の論議よりも裸供出の実行が今の農村。皆サマの御理解のもと今からでも遅くない、直ちに供出を。もう一粒もないぞが現在の模範農家。三日現在本村供出成績四五・八%」と、深刻な事態を報じていた。この間新方村の供出不良農家一九戸が、三月十二日、県下で初めての不供出罪で検挙されるという事件も発生した。

 その後桜井村はじめ水災地村々の供出成績は不明ながら、おそらく割当て量の供出を完納することはできなかったであろう。そして桜井村では同年四月、裸供出のためとして、桜井村一〇〇%の全人口が要配給者として、その配給方を県に申請した。すなわち四月分「食糧受配給者報告」では、純消費者一五九戸五七四名、米作農家三八〇戸二四八七名、計五三八戸三〇六一名の受配者数を記し、これに対する定められた配給量一七六石四斗の主食配給を申請している。これは軍政部に対する最後の抵抗であったかも知れない。

 これに対し桜井村へ実際に配給された県決定の四月分主食量は六〇石であったので、桜井村では「処置全くつかず、如何とも成し難き状態」であるとして、一一六石四斗の不足分追加配給を請求した。県ではその後若干の追加割当を行なったが、月々の配給量は決して満足には渡さなかったようである。