ヤミ売買

740~745 / 1164ページ

政府はインフレ対策として二十一年の新春から限界価格制度を実施し、ヤミ売り横流しの厳重な取締りを行なった。しかしヤミはますます横行し、水産物や青果物など生鮮食料品は、正規のルート以上にヤミ市場で公然と取引された。しかも統制機関の在庫品や、連合軍から返還された旧軍需物資、それに隠退蔵物資など配給ルートに乗らない物資がどこからともなく流れてきて、各消費都市のいたるところに青空市場やヤミ市場ができた。これに反し配給ルートの日用生活物資のすべてが極端に不足していたので、一般庶民は戦争末期以上に買出しとヤミ物資で配給の不足を補うほかなかった。

 ことに食糧となると生命にかかわるだけに、乏しい配給をヤミ買で補うべく、都市生活者は衣類や諸道具を持って近郊農村地帯に殺到した。越谷地域へのこの買出しも例外ではない。こうした現象に対し、農家は食糧を高価なヤミ値で売り、または衣類などと物々交換した。また職を持たない農村の人びとはこぞってヤミ屋に転向した。この間の実情の一端を、新聞の報道によってみてみよう。

 まず昭和二十二年一月三日付の埼玉新聞には、〝食料より燃料難、東武地区豊作に潤う〟という見出しで、越ヶ谷地区は「東京都内への交通頻繁なため、物交部隊が詰めかけ来るので、附近町村から相当の主食が運び出されている。特に越ヶ谷以南は船便が便利のため、肥料船で大量に流れているので、吉川・越ヶ谷署ではこの方面に厳重な取締りの手をのばしている」と、主食の肥船運搬の横流しを指摘し、「東武沿線は食糧の心配は当分ないが、どこも同じく燃料は各地とも附近に山林が少ないので大弱り、最近は屋外の燃料となるものは何時の間にか持ち去られて、頻繁なこの種の盗難届が出ているのは注目される」とその燃料の不足に困っていることを報じている。

 ついで同年一月二十七日付の報道では、〝求職も求人もない埼葛三万の失業者闇へ転向〟という見出しで、「越ヶ谷勤労署管内には、工場数一〇九、従業員数は二〇〇〇名程度、だが埼葛地区には失業者が三万人以上、これらの失業者は勤務時間に制限がない、収入の多い新興商売(闇屋)に転向しており、その筋ではこの対策に腐心している」とヤミ屋の激増を報じ、翌二十八日付の報道では、〝闇屋さんなら家は建つ。東武にふえたバラック〟の見出しで、「五〇〇円生活者には、障子の張りかえも出来ぬ時代に、一坪五、六千円の闇建築が東武沿線に急造している。しかもこれらの建築届出者は、表面上は失業者の闇屋さんと、農家の人たちである」という趣旨のことを記している。

 また同年二月一日付の記事では、〝東武沿線駅前藷の山〟という見出しで、生活必需物資一斉取締り、闇撲滅運動の第一日目の取締りの様子を報じている。同年三月二十六日付の報道では、主食取締りのため早朝出勤した越ヶ谷署の警察官が、駅待合室で馬鈴薯六、七貫目を背負った女ばかりの売込み部隊一行一〇名を捕えた。調べてみると彼女らは附近の農家の者が三名、非農家の者七名であったが、毎日農家から馬鈴薯を買いあさり、東武電車を利用して東京へヤミ売していたもので、なかには半年間で、この手で一万円以上の新円をかせいだ女もあり、平気な顔して帰っていくのに係員もあきれていたと記している。

 続いて同年五月一日付の記事では米を〝五十二俵押収、悪農一掃に乗出す〟の見出しで「越ヶ谷署ではかねてから管内の供米不良の農家に目星をつけていたが、部長外五名の署員が蒲生村の農家二軒を急襲、肥桶などに入れた隠し米を摘発した。このほか出羽村では農家三軒、大相模村では農家一軒を捜索し、計六軒の供米を阻んでいた農家を槍玉にあげて合計五二俵を押収した。これをみた附近のまじめな農民たちはみな、警察が闇流しの一掃に本腰を入れたことを喜んでいる」と報じている。

 この闇流しに関しては、日光方面の木炭の物々交換グループもこれに関係していたようである。たとえば、同年六月七日付の報道では、〝炭の物交隊七名を検挙〟の見出しで、「越ヶ谷署では最近またまた日光・鬼怒川方面からの炭の物交隊が盛んに入りこむので、署員が東武大袋駅で取締りにあたった。終電車から降りた娘をまじえ、一行七名、八俵半の炭をおさえた。附近の農家に泊り込んで炭を米に換え、それをまた東京に持って行って金に換えて帰るという」と報じている。

 やがて馬鈴薯の収穫期に入った六月半ばになると、馬鈴薯買出し部隊のすさまじい殺到が連日新聞紙面を賑してくる。すなわち六月十九日付の記事には〝東武沿線に芋の買出殺到〟という見出しで「越ヶ谷署ではここ数日来、めっきり増加したじゃがいも買出しに、十七日午前八時から武装警官を出動させ、東武沿線越ヶ谷・大沢・蒲生の各駅で、主食の一斉取締りを行なった。電車の着く度にそれと知った約三千の買出部隊は大あわて、中にはすごすご帰るものもいたが、武里・大袋方面に方向転換するものなど駅は大混乱を呈した。午後二時までに越ヶ谷でじゃがいも六十三貫八百と、日光方面からの持込み炭十七俵を押収した」と報じ「食糧事情はよくわかっているので、気の毒だが、こう毎日殺到しては交通上からも眼にあまるものがあり、供出意欲を阻害してしまうので、全くやむを得ない」という越ヶ谷警察署長の談話を載せている。

 しかしきびしい取締りの中にあっても、買出部隊は一向に減らないばかりか日増しに増加した。これには多分に農家の責任もあったようである。同じく六月二十二日の記事には〝県下になだれ込む買出部隊、相談に乗る悪農、供出もせず闇流し、取締りに智恵を絞る当局〟という見出しで悪農の摘発を報じている。

 また同日付の記事のなかで、〝一日の持出し四万貫、越ヶ谷駅に買出し野宿〟の見出しで、東武電車では買出人の殺到で、臨時に越ヶ谷から折返し電車を二本も運転したほどであり、越ヶ谷駅の切符の売上げは、午後二時までに五〇〇〇枚を売切ったという。この分では、野宿覚悟で附近にたむろする買出部隊で騒がしいだろうと記している。

 そして翌二十三日付の記事では、〝畑一面闇市場(いちば)、日に三百万円の新芋取引〟の見出しで、「越ヶ谷町を中心に東武沿線新じゃが狂奏曲――ヤミ屋もまじる買出部隊は、日ごとに猛烈を極め、廿日の越ヶ谷駅の切符売上枚数は七千四十四枚をはじめ、大沢一九二三枚、新田一七六二枚、蒲生一八四七枚、大袋八六六枚、武里八五五枚といずれも記録破り」とあり、さらに〝十数町リックの隊列、余りの人出に町民呆然〟という見出しで、「きょうの日曜(廿二日)を書入れに、東武沿線の買出しラッシュは絶頂に達した。延々とつゞく買出しは越ヶ谷はじめ附近各町村を埋めつくし、畑という畑はこれらじゃがいも買いあさり部隊に占領された形、想像を絶するこの人出に駅取締りの警官も手がつけられず、越ヶ谷駅にはリックを背負った勤め人やら子供づれの主婦連、それにヤミ屋らしい者たちなど八列に並んで、同日午後にはえんえん十町にあまる長蛇の行列、東武各停留所も身動きならぬ混雑で、各所にこれら買出人の小ぜり合いが起り、空前のこの人出に町民も呆然としている」と当時の状況を報じている。

 このすさまじいじゃがいも買出部隊の殺到は、その後ようやくおさまったようであるが、同年九月十五日に来襲したカスリーン台風の被害で闇売・闇買のさわぎどころではなかったであろう。ところが買出し部隊はその後もあとを断たなかった。すなわち水害直後の二十二年十月五日付の記事では、買出し人が殺到して整理もつかないので、越ヶ谷に検問所を設置したと報じている。

 ことに翌二十三年六月の馬鈴薯収穫期を迎えると、「越ヶ谷での張り込みに買出し消える」(越ヶ谷六月九日)、「ジャガ罪をつくる。供出のがれの新手か、じゃがいもの盗難届け増加」(越ヶ谷六月十日)、「悪村議じゃが芋ヤミ売り」(川柳六月十一日)、「買出隊蒲生駅を取巻く、日に持出されるじゃが二千俵」(蒲生・川柳・出羽六月十一日)、「悪農に警告、ヤミ売には厳罰」(越ヶ谷・蒲生六月十一日)、「大袋村農家ヤミに専念、供出は最下位」(大袋六月二十六日)等々の見出しで、連日のようにヤミ買ヤミ売を報じている。

 そして秋の収穫期を迎えると、また主食一斉取締りの記事が多くなる。「買出電車を急襲、越ヶ谷にて米麦等多数を押収」(十月二十一日)、「その場で罰金刑、越ヶ谷署二電車一斉取締り」(十二月七日)、「越ヶ谷で一斉取締り」(十二月二十六日)等々。

 ともかくこの種の報道は、二十年から二十二年にかけてを頂点にして、二十三年、二十四年と続くが、二十五年頃からはこうした記事は次第に消えていった。食糧事情が幾分落着いてきた反映であったろう。

 ともかくこれらの新聞報道は巷にあふれるヤミ屋の横行をいきいきととらえてはいるが、きわめて現象的であることは否めない。戦争による経済の極度の疲弊、そして空前の食糧危機の中で、一方で都市住民は職もなく、喰うものもなく、自分の持ち物を切り売りして、その日その日の糊口をしのがざるをえない状態においやられた。一方農村にあっては、戦災、復員、外地引揚げなどで膨大な過剰人口が滞留し、しかも重税、低米価強権供出の中で、農民は生産費を大きく下まわる低価格で主要食糧を強権的に供出させられた。当時のインフレ進行の中で、農民が生活を維持するためにはつよくヤミ市場に依存しなければならなかった。また膨大な失業者や都市住民も同じくヤミ市場に依存しなければ生きてゆけなかったことを忘れてはなるまい。ヤミ市場とは、戦争と敗戦の遺産であり、破綻した経済と国民生活の上に咲く〝悪の華〟であったといえよう。