広い範囲と長期にわたる大災害であったのと、戦後、部落組織が解体され行政の末端ルートが完全にマヒしていたため、官民あげての努力にかかわらず、その救援活動は必ずしも有効適切に進められたとはいえなかったようである。すなわち救援物資や特配物資を円滑に処理する隣組などの下部組織は、政令一五号によって禁じられていたので、効率的な物資流通が阻害されその混乱に便乗して不正をはたらくものさえあった。そのうえ、せっかくの災害救助用の特配物資も有償配布品が多く、その恩恵を受けることのできないものが少なくなかった。そこで、県では有償物資の一部無償化や代金支払日の延期をはかるとともに、床上浸水、家屋の全・半壊や流失の場合に限り第一次封鎖預金の解除を認めた。越谷地域でもっとも該当者の多かった床上浸水家庭の場合では、一人あたり四〇〇円、一戸あたり二〇〇〇円の限度額で封鎖預金の引出しが認められ、特配物資購入の途が開かれた。
しかしながら、こうした応急的諸対策のほか収穫皆無田畑への地租免除や地方税の減免措置も、被災者の困窮を救うに十分ではなかった。
なお、水害の発生と同時に組織され、不休の努力を傾注して被災者救済の大役を果してきた埼玉県非常災害救済対策本部は、混乱状態の一応の終息を待って十月二十五日に事務所を閉じ、復興段階の業務を、新たに設けられた埼玉県水害復興委員会に委ねることによって、発展的な解消を遂げることになった。