河況悪化と治水思想の低迷

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越谷地域を流れる中川、古利根川、元荒川、綾瀬川の諸河川は、明治末期から大正初期にかけて、国営、県営、または水利組合営として一応の改修が積み重ねられてきたが、太平洋戦争前後の一〇余年の間は適切な管理を欠いたため、土砂堆積による河積の減少、および堤塘や河川敷の耕地化による破損と荒廃がすすみ、排水機能や護岸能力の著しく低下した老朽河川となっていた。そのうえ、食糧増産政策により耕地整理と池沼干拓が各所で施行されてきたため、屈曲していた小用排水路は直線水路に短縮され、また池沼の遊水機能も失われたため、流域の集中豪雨は短時間のうちに元荒川に集流するようになっていた。

 このため、埼玉県は、出水を懸念して、堤塘の雑草を刈払わせたり、河川敷のうち河岸近接部分と堤防敷の耕作を禁止し、違反者を取締るなど、再三にわたって堤塘の保全を沿岸の人々に呼びかけてきた。しかし、終戦前後の混乱により、予算措置をともなわない呼びかけだけに終始したため、関東地方を襲ったカスリーン台風の猛威のまえに、その治水対策は完全に破綻した。

 こうして、中川水系流域の六二ヵ町村は大水害を蒙ったが、その後カスリーン台風の惨禍から立ち直った越谷地域の人びとは、改めて治水の重要性に気づきその対策を模索しはじめた。たとえば、洪水の被害が最もひどかった新方領地域の農民たちは、翌二十三年の春に、新方領水害予防組合を設立して水害自衛のためにたちあがった。これと前後して中川水系流域の各地にも水害予防組合が設立されたが、翌二十四年には、これら民間治水団体は、利根川・江戸川水害予防組合連合会のもとに大同団結を果たし、その後の元荒川治水同盟会成立の基盤となった。

 このように治水対策の必要性が認識され、民間による水害予防組合が結成されていったが、なかには当時の食糧難から、土揚敷・堤塘敷などへの耕作や、あるいは瓦礫・塵芥を放棄する者があとを断たなかった。このため埼玉県や普通水利組合では、次のごとき通達を出して人びとの注意を促すほどであった。

  昨年十月十三日附岩発第二〇六号を以て御協力をお願して置きましたが、未だ趣旨が徹底いたしませんので、引続き耕作して居る現状を見受けられますが、真に遺憾に存ぜられます。本件に就きましては先頃埼玉県土木部長及び農地部長からも、昭和二十三年六月十日附河川発第三二〇号を以て通牒もありました筈ですが、此際御繁務中恐縮ですが、更らに一層御協力をお願いたしたいので、重ねて左記事項を一般に周知実行せられまする様お願申上げます。

  一、土揚敷・堤塘敷・高水敷及河岸斜面を耕作せぬ事

  二、水中又は河岸へ瓦礫塵芥の類を投棄せぬ事

  三、第一項に違背し耕作したときは、随時本組合に於て撤去することがありますから予めお含み於かれる事

      以上