昭和三十一年の春に、埼玉県は国の助成を得て、ようやく元荒川改修計画の作成にこぎつけた。事業計画は、熊谷――吉川間を工費三億六〇〇万円(県費四割)の予算をもって三年計画で改修しようとするものである。このうち第一期工事分として、河道屈曲が激しく、かつカスリーン台風時の湛水被害の大きかった越谷地域を中心に、中川本川合流点から岩槻までの一七キロメートル区間が予定された。
ところが、具体的な改修計画が発表されると、それまで治水の早期実現を待ち望んでいた越谷地域の農民の中には、事業の根本的な姿勢が、上流部の治水効果を下流部の犠牲によって達成しようとするものであるとして、強い不満が生じ計画の修正を求める声が急速に広がっていった。
すなわち、第一期工事の概要によると、
(1)排水能力を高めるため浚渫によって河床を二メートル下げる。
(2)荻島の曲流部分を直線にする。
(3)越谷町柳原付近の元荒川に伏越樋管を設け、逆川(葛西用水)を元荒川と分離させて瓦曾根溜井に導流させる。
(4)元荒川通り越谷町御殿付近から新河道を造成、葛西用水と元荒川河道を分離して元荒川を瓦曾根堰枠下に導く。
(5)中川合流点付近の元荒川を中川と併行に拡幅する。
などがその骨子であった。これに対して、末田須賀溜井系の水田三一五〇町歩と、瓦曾根溜井系の水田二四〇六町歩を耕作する越谷地域の農民たちは、河床の浚渫に伴う水位低下によって取水が困難になること、元荒用と逆用の分離により葛西用水の取水能力が低下して、水不足がさらに激化すること、新川堀削と河道拡幅による一二町歩の農地潰廃は、関係農家にとって死活問題であること、などを理由に、元荒川改修対策委員会を組織して計画変更の陳情運動にとりくんだ。
このため、県は地元との折衝に時日を費やし、荻島地区元荒川通り出洲の直線化など一部計画を変更し、ようやく三十五年に総工費一億五〇〇〇万円の予算で本格的な着工にかかった。翌三十六年度には、葛西用水と元荒川を分離する新堤防が、瓦曾根堰枠から上流五〇〇メートルの間にかたちづくられるとともに、元荒川をくぐる伏越樋の工事が始められた。
かくて四十一年の春、全長一〇〇メートルの埼玉県ではもっとも長い逆川のサイフォン(伏越樋)工事が完成し、ここに元荒川と葛西用水は完全に分離されてそれぞれ流下することになった。四十二年六月には、中川上流第一期改修工事はすべて完了したが、この総工費は当初の予算をはるかに上まわり七億九七〇〇万円が費やされた。これによって元荒川上流地域の排水が良くなるとともに、越谷地域では、元荒川の排水をまじえないきれいな葛西用水が灌漑用水として使用されるようになった。
こうして、越谷地域に再三大きな水禍をもたらした元荒川は、今では水郷越谷を代表する優雅な河川として多くの市民に親しまれ愛されるようになった。しかし水害の危険がまったくなくなったというわけではない。