占領軍の統治

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昭和二十年九月二日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印が行なわれ、日本は連合国軍の占領下に置かれた。連合国軍といっても、実際はそのほとんどが、連合国軍総司令官マッカーサーのひきいるアメリカ軍による占領であった。ただし軍政はしかれず、その占領は形の上では「天皇をふくむ日本政府機関、および諸機関を通じてその権力を行使」することとされた。

 占領軍は、戦争末期に設けた日本の地方統監府の区分にしたがい、北海道・東北・関東甲信越・東海北陸・近畿・中国・四国・九州の八地区に軍政部を設置し、地方行政の監察にあたった。これら地方の行政監察機関をはじめ、中央の政治・経済を統轄したのは、東京丸の内に置かれた総司令部(GHQ)である。同時にこの総司令部に対応させるものとして、政府は八月二十五日に終戦連絡事務局を設置したが、総司令部から発せられるすべての命令や指示事項は、この事務局を通じて日本政府に伝達された。つまり日本政府の各省局は、終戦事務局を媒介として総司令部の指揮下に置かれたわけである。このほかその指揮下に置かれたのは、民間の新聞や放送機関など言論報道機関にまで及んだ。こうして総司令部の命令は、あたかも明治憲法下の緊急勅令と同じく、日本のすべての法律や命令に優先するものとされた。しかもこの特権は、昭和二十二年五月三日に制定された新憲法の発布後も、「ポツダム管理令」として持続され生かされた。

 この強力な権力を握った総司令部による占領政策の主な柱は、政治と経済の二部門からなり、政治では武装の解除と軍国主義の抹殺、戦争犯罪人の処刑、個人の自由と民主主義の助長となっている。経済では、経済機構の非軍事化、諸産業部門における民主主義勢力の育成、平和的経済活動の再開などとなっており、日本の非軍事化と民主化を目的にしたものであった。総司令部は、この基本方針に基づいて、つぎつぎと具体的な指令を発したが、この占領政策は、昭和二十六年九月八日のサンフランシスコにおける日米講和条約の締結まで続いたのである。

 なお総司令部の地方監察機関として各県にも軍政部が置かれたが、埼玉県には二十年十月、大宮市旧片倉製糸工場に埼玉県軍政部が設置され、ライアン中佐が司令官として着任した。その後二十一年三月、大宮の軍政部は県庁に近い浦和市の旧埼玉会館の別館に移され、以来ここが県の政治・経済の実質的な中枢機関となった。

埼玉軍政部となった旧埼玉会館