公職者の追放

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連合国軍による日本占領統治の基本方針は、日本の非軍事化と民主化であった。このうちの非軍事化は、民主化政策とも大きなかかわりあいがあったが、直接には日本の武装の解除とともに、戦争責任者としての戦争犯罪人の摘発とその処刑、戦争協力者の公職からの追放という二つの方法によって行なわれた。

 戦争犯罪人の摘発は、その種類によってA級・B級・C級に分けられたが、このうちA級戦犯は、二十一年五月三日から二十三年四月十六日にわたる極東裁判の公判に基づき、同年十一月の判決によって処刑された。すなわち東条英機以下七名が死刑、荒木貞夫以下一六名が終身禁錮、そのほかそれぞれによる判決によって刑が確定した。

 公職者の追放については、その理由は同じくポツダム宣言第六項の「日本国国民ヲ欺瞞シ、之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力、及ビ勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ」という軍国主義勢力の一掃を理由に、昭和二十一年一月四日連合軍総司令部は、政府に対し「公務従事に適せざる者の公職よりの除去に関する件」という覚書を指令した。この覚書の付属書には、罷免ならびに排除すべき者の種類として、戦争犯罪人・職業軍人・大政翼賛会・翼賛政治会等の有力幹部を追放の該当者として示した。これに基づき政府は同年二月二十八日、公職追放令を公布施行し、同年六月、公職適否審査委員会を設置して、公職適否の審査を実施した。こうして中央では一年間に一〇六七人が追放処分をうけた。

 さらに総司令部は、公職者の追放を地方自治体にも及ぼす方針を指示したため、政府は二十一年十一月八日「地方公職に関する追放覚書の適用に関する件」の通達を発し追放者の拡大を示した。このとき新たに追放の基準に加えられたものは、戦時中から引続いて地方議会の議員にあるものおよび地方長官、市区町村長・助役・収入役、大政翼賛会・翼賛壮年団・在郷軍人会の町村分会長ならびに町内会・部落会の有力者にも及んでいた。これらの追放該当者は、翌二十二年四月に行なわれる統一地方選挙に出馬できないばかりか、その後の四年間はいかなる公職にもつけないと定められていた。これら追放該当者数は、全国では旧軍人を含め数万人に達したといわれる。もっとも戦時中から現職にあった市町村長の多くは、追放される以前にみずから辞職していたようである。

 その後も総司令部は公職追放該当者の摘発を執ように指示していたようである。たとえば埼玉県では、中央からの通達に基づき、二十二年八月二十一日付で公職追放にもれた「潜在該当者」の調査書上を命じている。これに対し各市町村ではこの報告書を県に提出したが、越谷地域ではたとえば出羽村の書上でみると、戦時中大政翼賛会埼玉支部出羽村支部長を勤めた者二名、埼玉県翼賛壮年団出羽村団長を勤めた者一名、帝国在郷軍人会出羽村分会長を勤めた者二名の計五名を書上げている。これらの人びとがすべて公職から追放されたか不明ながら、越谷地域の追放該当者もかなりの数にのぼったとみられる。