町村役場の動向

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このような公職追放適用範囲の拡大に伴い、戦時中から引続いて町村長の職にあった者は、いずれも追放をうける前にみずから辞職していった。すなわち越ヶ谷町長をはじめ、大相模・蒲生・出羽・荻島・大袋・増林・新方・桜井の各村長は、昭和二十一年中に辞職している。このあと、越ヶ谷・大沢・荻島・大袋・大相模のように新たに町村長を立てたところもあったが、助役が村長を代行するところもあった。こうして二十二年四月、第一回の町村長公選が行われ、はじめての民選による町村長が誕生した。

 この町村長をはじめとした公職者民選の意味は重要で、埼玉軍政部司令官ライアン中佐が二十二年五月に埼玉県民に宛てた「民主的な制度について」のなかでは、

  何人も銘記せねばならぬ今一つの事がある。公職にあるものは人民の使用人である。彼等にして其義務を怠るならば、人民は投票により彼等を其職より逐ふ権利がある。公職者と有権者とが此事実を忘れさへしなければ、より以上信頼が、間もなく日本政治制度の上に現はるゝであらう事を私は信ずる。

と言っている。すなわち民衆が選んだ公職者は民衆の使用人である。その義務を怠るときは投票によってその職を辞めさせることができるとし、公職者の立場とこれを選ぶ民衆との関係を明確に示していた。さらにこの関係を押し進めるために、すでに総司令部は、町村長が町村議会の議長を勤めたり、各種選挙の際町村長が選挙の管理者となる従来の慣行を禁止した町村制の改正を行なっており、町村長の権限をいちじるしく制限していた。

 ともかく民衆の使用人に位置づけられた、はじめての民選による町村長に対する住民の反応を、埼玉新聞二十二年七月八日付「民選町村長はいかがですか」によって、越ヶ谷町長の場合をみてみよう。ここには〝ドブ掃除に先頭〟との見出しで、

  青年町長大塚伴鹿サンが、時代の脚光を浴びて登場した時、一時越ヶ谷町には渦が巻いた。然し初の町議会では、青年町長余りにお高く止り過ぎ、一部青年議員から猛烈な反対を買った。(中略)最近幾分形勢は好転したが、まだ反対派はしやく然とするまでには至つていないという現状だが、町政推進には先ず町内の悪道路に砂利百トンを持つて来て、自からシヤベルを持つたり、下水の修理改良に雨中ドブ掃除をやるなど、幾らか如才ない挺身振りを示していることは、小なりとはいえ民選町長型である。小学校の修繕費用にすら悩む現在の越ヶ谷町財政では、金のかかる事業は一寸手が出せないが、小学校の校舎につつかい棒をして倒壊を防いだり、ミルク券の濫発を整理したり、役場吏員の机の位置を換えて、町民が役場から受ける気分を変えようとしたり、当選就任と同時に挨拶状を役場の入口に大きく貼り出して、町民に協力を求めたあたり、民選町長らしい手法であるが、未だこれを功績の一つとして数えることは時期の問題であろうと思う。

とこれを報じている。国家権力を背景としてあぐらをかいていた地方自治体の首長は、ここに大きな転換期を迎えたわけであり、民選首長の新たな姿勢の一端が、この報道からも知ることができる。