日本の消防組織は、明治以来警察業務の一環として警察署長の統制下に置かれていた。ことに日中戦争を契機として、昭和十四年四月には警防団令が公布され、消防団の名称も警防団と改められたが、同時に強力な警察の指導監督のもとに、防空・治安・防火・防水などの広範な任務が課せられて、臨戦体制の一翼に組込まれた。
しかし戦後、新憲法の制定にともない消防組織を警察から分離させ、地方自治体の管理下に移すという民主化政策のなかで、まず昭和二十二年四月、消防団令が公布され、その名称は警防団から元の名の消防団と改められた。続いて同年十二月、消防組織法が制定され、消防団は完全に警察から分離して、地方自治体に移されることになった。この法令の施行日は、二十三年二月であったが、このとき埼玉県総務部から各市町村に宛てた通達には、「消防業務の総ては、市町村長に移譲され、水・火災その他災害時に於ける消防活動、並に諸報告の総てが、市町村長の責任」となったと述べている。
このように地方自治体では、消防団の諸業務はすべて市町村長の管理に移されて、消防団員の任免も市町村長の権限に置かれたが、東京都に設けられた国家消防庁の場合には、地方自治体から独立した国家公安委員会の指揮監督下に置かれた。ともかく消防団組織の大きな転換期に直面した越谷地域消防団や町村当局の動向はどうであったろうか。
昭和二十二年六月、同年四月の消防団令の制定にもとずき、大日本警防協会埼玉県支部越ヶ谷警察署分会長(署長)は、越ヶ谷警察署管内の越ヶ谷・大沢・蒲生・出羽・荻島・大袋・桜井・新方・増林・大相模・川柳・八条・八幡・潮止各町村の警防団長宛に、団長会議の開催を通知した。議題は昭和二十二年度警防団歳入歳出予算案の審議とともに、「警防団より消防団への改組に関する件」ならびに「消防団組織後の運営に就いて」などの案件であった。このうち警防団の歳入予算は、ほとんどが町村負担金で賄われており、二十二年度は雑収入を含め年間一万九七〇〇円の予算であった。
一方歳出予算は警防改善費・表彰費・弔慰救済費・事務費・負担金・会議費・助成費・予備費からなっていたが、給料・手当などの人件費に関する項目はない。これは火災などに対して出動する団員の手当は、それぞれの町村が別に負担していたからである。しかし警察を中心としたこの警防協会は、翌二十三年二月、消防組織法の施行によって解散され、消防団は各自治体町村の単独所管に移された。すなわちこの法令には、
(1)市町村は消防団を設置しなければならない。
(2)消防団員は市町村長がこれを任免する。
(3)市町村に消防委員会を設置しなければならない。
(4)消防団員は、当該市町村の住民の中から、消防委員会の推薦した者をこれに命じなければならない。
(5)消防団員の定員は、市町村が条例でこれを定める。
(6)消防団及消防委員会に関する費用は、市町村の負担とする。
などの条項が示されており、各町村では警防協会にかわって消防委員会を置くとともに、消防団設置条例を設けた。
この消防団条例を、たとえば桜井村でみてみると、桜井村消防団員の定数は二五五名となっている。このうち団長・副団長は各一名、分団長は七名、部長・班長は各一五名、団員は二一六名であり、団員は七分団に編成されて各分団に所属された。このほか
(1)本村に桜井村消防委員会を設置する
(2)消防委員のうち、村会議員及学識経験者を以てこれに充つべき者の定数は各三人とする
(3)消防委員会は村長がこれを召集する
(4)消防団の設備資材は、団長がこれを保管する
などとなっている。しかし消防団員の身分は、警防団当時と変らず、「消防団員は召集によって出勤し服務するものとする」という服務規律に示されたように、ほとんどの団員は農業の間、あるいは商業工業の間、召集によって消防に従事する非常勤の消防要員であった。その給与も給与規程によると、出場手当・訓練手当・警戒手当・技術手当・被服手当・賄手当があったが、いずれも動員時の出勤手当であり、定まった給与は与えられなかった。
ともかく各町村は、新法令にしたがい消防団設置条例や団員服務規程・同給与規程などを設け、その形式を一応整備したが、団員間にあっては積極的にこれに参加する姿勢は、あまりみられなかったようである。おそらく財政の裏づけもない町村への移管であったので、その運営は警防団当時と変りなく、このため戦後の復興に努めている団員にとっては魅力のないものであったに違いない。
事実桜井村では、第一回の消防分団長会議を開いたが、分団長の多くはこれに欠席している。このため消防委員会会長である桜井村長は、警防団当時の団員ならびに役員構成をそのまま踏襲するという次のごとき通知書を欠席分団長に送付した。
去る二十六日夜御案内通り、各分団長会議を当役場に開催、初の消防委員会として有意義に終了しました。当席貴職には御出席御座いませんでしたが、概(おお)むね警防団当時とその運営は同じで御座いますことは御承知の如くです。当夜別紙辞令を出席分団長さんに御願いし、新発足として従来の団員に御渡し願い、御異議なければ役員全部の互選の形式で其の儘任命することになりました。
また各町村においても、法令に示された規程どおりの内容を実施するには、その設備や財政の面で無理があった。この点同国家消防庁の一事務官が、『地方自治』(昭和二十三年六月号)のなかで、
消防団は従来警察の中に、警察権力を背景として生成して来たのであるが、ここに従来の絆を断って独立独歩しなければならなくなった。しかもこの独り歩きする第一歩において、消防は何と実体法を伴わない組織法だけで、跋行で栄養失調である。
として、実体のともなわない組織法の非現実性を指摘していた。さらに政府は二十三年三月、消防団令と消防組織法を改正し、消防団に消防本部を設けるとともに、特定の消防長を置くことを規定した。この意図は消防長の業務権限を拡大し、消防の指揮監督権を町村長の手から離そうとする独立体制の確保にあった。しかし専任の消防吏員を置くことのできない多くの町村は、消防本部を設置したものの、消防長にはいずれも町村長が兼務した。
しかも消防設備の実態は、当時はまだ昔ながらの器具を備えたままの状態で、これを改善する余裕もなかった。たとえば当時備え付けの消防器具を、桜井村二十三年十一月の書上げによってみると、大正六年から同九年にかけて、各分団ごとに備え付けられた手押消防ポンプが七台、同じく大正年間から使用されている釣瓶・手桶・火の見櫓・梯子などであった。これに対し埼玉県では、将来の消防施設の充実計画を問合せていたが、桜井村では「本村現在の処施設計画の要なきものと認めます」とて、消極的な回答を示していた。
これには同年九月、火災の度数や火災損額の書上を求められたのに対し、「本村本日迄過去一ヶ年間無火災です」と報告していたごとく、火災に対する懸念が深刻でなかったためもあろうが、なによりも村財政の負担を憂慮したものである。そして度重なる新消防法の施行督促や、その施行の必要性を強調し続ける県の通達にはむしろ迷惑がっていたふしもみられる。なお同年九月、埼玉県で実施した現有消防勢力の調査では、桜井村の場合手押ポンプ七台、有給消防吏員なし、有給消防団員二四名、無給消防団員二三一名となっている。このうち有給消防団員も、消防長を兼任した村長や事務を担当した役場吏員、その外特定の消防役員たちであった。