防火林に囲まれ人家のまばらな農村とは異なり、越ヶ谷町は軒を接した人家の密集地域であったので、明治以降にも同七年、同三十二年と町の大半を焼失する大火を経験していた。このため町民の消防に対する関心はことに高かったが、町財政の貧困から、近代的な組織と装備の充実をはかるには、かなりの時日を経ねばならなかった。すなわち越ヶ谷町昭和二十七年時の消防団現有勢力をみると、越ヶ谷町の当時の世帯数は一六〇三軒、人口七五二三名、これに対し消防団の構成は、団長以下団員六一名であったが、団員はまだいずれも非常勤の消防要員に過ぎなかった。それでも消防備品はこの年購入した消防自動車一台、それに従来から使用されていた三輪自動車二台を保有した。
また消防費の町費に占める割合は、二十六年度で消防費総額三一万余円、およそ二・三%であったが、二十七年度は総額二一五万七〇〇〇円、同年度の町費一五七一万〇九四二円に対し一三・七%を占めた。しかし同年度は一八〇万円で消防車を購入しているので、その経常費は三五万七〇〇〇円であり、普通町費の二%から三%程度の支出であった。
その後昭和二十九年十一月、越ヶ谷町はじめ二町八ヵ村が合併して越谷町を成立させたが、消防団の組織は各町村の現有勢力をそのまま越谷町に移管し、消防本部ほか旧町村単位による一〇分団に編成された。なお三十年度の消防費予算は、五一一万余円であり、町費一億二〇三一万余円の予算に対し、四・三%の比率を示していた。ついで三十一年十一月、消防団員はいちじるしく削減され、川柳分団を合せ一一分団の組織に再編成された。このときの現有勢力は第14表のごとくである。これによると当時の越谷町世帯数は、七八九六戸、人口四万七三二七名、これに対し消防予算は六九二万八二〇〇円、消防備品は自動車ポンプ三台、三輪車ポンプ七台、その他手動ポンプ等となっている。
団員数 | 自動車ポンプ | 三輪車ポンプ | 手びきガソリンポンプ | 可搬式ポンプ | 火の見やぐら | 貯水槽(コンクリート) | 人口数 | 世帯数 | 消防予算 | 住民1人当 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
鉄骨 | 木柱 | ||||||||||
813 | 3 | 7 | 3 | 23 | 40 | 28 | 81 | 47,327 | 7,896 | 6,928,200 | 146 |
(昭和31.12.1現在)
種別 | 本部 | 桜井分団 | 大袋分団 | 荻島分団 | 出羽分団 | 蒲生分団 | 川柳分団 | 大相模分団 | 増林分団 | 新方分団 | 大沢分団 | 越ヶ谷分団 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
団員 | 3 | 107 | 41 | 62 | 56 | 53 | 41 | 66 | 123 | 79 | 131 | 51 | 813名 |
自動車ポンプ | 1 | 2 | 3台 | ||||||||||
三輪車ポンプ | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 7台 | |||||
手びきガソリンポンプ | 1 | 1 | 1 | 3台 |
やがて越谷町は三十三年十一月に市制を施行して越谷市になったが、翌三十四年十月、大沢に常設消防本部が設置され、消防署が開設された。ここにはじめて一三名の専任消防吏員が配置され、消防組織法にもとづく近代的な消防組織が実現した。法令が施行されてから実に一〇年の歳月が流れていた。そして四十二年八月、鉄筋三階建の消防署庁舎が大沢に建設されるとともに、同年十二月、消防長は市長の兼任から除かれ、独立した消防組織体制が整えられた。
四十二年当時の越谷市の消防吏員は三八名、このほか非常勤の消防団員は四五二名であったが、五十一年度の消防署職員は一四七名を数え、大沢の消防本署のほか、すでに蒲生と谷中二ヵ所に消防分署が設けられた。消防車も特殊消防自動車を含めて八台、それに四十二年度から開始された救急業務の業務用救急車三台を備え、消防設備の拡充がはかられていた。