戦後の選挙

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戦争終結に際して、日本政府が受諾したポツダム宣言のなかに「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ、言論・宗教及思想ノ自由、並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」とある。連合軍総司令部はこの宣言の趣旨に沿って、日本の民主化政策を押し進めた。なかでも公職の選挙にあたっては、婦人に参政権を与え、労働運動に対しては、労働者に団結権を与えたのは、日本の国政史上画期的な大変革であった。すでに婦人の参政権や労働者の団結権は、日本の民主主義の実現をめざした運動のなかで、はやくから培われてきた伝統であったが、戦前の日本では、かつて一度も法的に認められなかったものである。

 このうち婦人の参政権は、二十年十月のマッカーサーの民主化指令にもとづき、選挙法の改正案が作成され同年十二月の議会で可決制定された。そして翌二十一年四月十日、婦人が参政権をはじめて行使した戦後最初の衆議院議員選挙が行なわれた。この選挙では、埼玉県の議員定数は一三名であり、全県一区制がとられた。記名方法は三名連記によったが、立候補者は五六名を数える乱立状態であった。選挙の結果埼玉県選出議員の党派別は自由党八名、進歩党二名、社会党二名、県政振興会一名の振合となった。このうち県東部からの当選者は自由党三ツ林幸三、同古島義英(越ヶ谷町在住)である。また全国の党派別では、自由党一四一名、進歩党九四名、社会党九三名、協同党一四名、共産党五名、諸派三八名、無所属八四名の勢力分野であり、社会党の進出が目ざましかった。またこのなかに婦人議員三九名が誕生したことは、日本の議会史上特筆すべきことであった。

 ついで二十一年九月、府県制・市・町・村制の改正法令が制定された。これが戦後の地方自治制度の第一次改革である。この改正法令の特徴の一つは、住民の直接選挙の範囲が、都道府県や市町村の首長にまで拡大され、首長に対する住民の直接請求や住民投票が認められたことにある。第二には、地方公共団体に対する監督官庁の権限が大きく削減され、地方公共団体の自律性が強調されたことである。第三には行政の公正を保持するため、行政機構から独立した選挙管理委員会や、監査委員制度が創設されたことである。

 続いて二十二年二月、新憲法の理念とは相異なる貴族院が廃止され、これに代って参議院議員選挙法が新しく制定されたが、同年三月三十一日には衆議院議員選挙法も改正されて衆議院は解散された。こうした一連の制度改正により、同年四月は空前の選挙ラッシュを迎えた。すなわち都道府県をはじめ市町村の首長選挙、参議院・衆議院の議員選挙、ならびに都道府県や市町村の議員選挙が四月中に行われることになったからである。

 この間総司令部は、町内会・部落会の解散を指示し、かつ公職者の追放範囲を部落会長や大政翼賛会・在郷軍人会などの町村支部長まで拡大し、好ましくないとされた戦時中からの国策協力者の立候補を極力阻止しようとはかった。こうして二十二年四月諸制度改正後の第一回総選挙が行なわれたが、この様子の一端を新方村の場合でみてみよう。