新方村の選挙広報

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新方村では二十二年三月から、「選挙早わかり」というチラシ広報を各戸に配付している。この第一報には

  今迄は原則として町村長が選挙一切の事務を行つてきたのでありますが、御承知の通りこんどの町村制の大改正により、新らしく選挙管理委員会といふものが出来、この会によつて一切の選挙の事務を行ふことになったのです。そこで私の村の選挙管理委員会の陣容をすでに告示等で御承知の方もあると思ひますがお知らせいたします。管理委員会の構成は四名の委員からなります。その外補充員といふ方が四名おります。あらゆる選挙の事は、右の管理委員会で行ひ、したがつて今迄町村長が行つてきた選挙長、あるいは投票管理者、開票管理者といふ方も、こんど管理委員がきめることになりました。

と、選挙事務における管理委員会の役割などを周知させた。第二報では、「最初部落会単位に投票区を設けるよう指示がありましたが、こんど変りまして」と、従来から行われていた部落単位の投票区が廃され、新たに地域割による投票区が設定されたことを伝え、また知事と町村長、県会議員と村会議員の合同選挙に際し、投票用紙の色による見分け方などを知らせた。このほか立候補者の「供託金は、今の処参議院議員は五〇〇〇円、衆議院と知事は二〇〇〇円、市長は一〇〇〇円、県会議員は二〇〇円、村長はありません。そのかわり三〇人以上の選挙人の署名が必要です。村会議員はなし」とて、供託金についてまでふれていた。

 第三報では、村長などの決選投票という見出しで、「あくまで民意をひょうちょう(表徴)するという意味から、決選投票とゆう事になります。何れも有効投票の八分の三を獲得できなかつた時は、其のうちから最高得点者と次点者との決選投票になるのです」と記し、立候補者の資格審査については「資格審査書を提出し確認書を受けて後、立候補ということになります。したがって確認書を持っていないと立候補できません。但し村会議員は、審査がじご(事後)しんさとなるので、審査書を提出した旨の知事の証明書があればよいのです」とある。たとえばこの確認書とは次のごときものである。

  右の者は昭和二十二年、勅令第一号(公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令)第七条第一項の規定により提出した調査書により審査をしたところ、昭和二十一年一月四日附聯合国最高司令官覚書、公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件に掲げる条項に該当する者でない者であることを確認する。

   昭和二十二年三月二十一日    埼玉県知事印

このように審査の主な対象は、公職追放の該当者であるかないかが目的であった。次に選挙の期日は「二月二十七日のりんじ閣議で、大体次のように決定されました。四月五日知事・市町村長、四月十五日右の決定投票(いわゆる決選投票)、四月二十日参議院、四月二十五日衆議院、四月三十日県会議員・市町村会議員」であると知らせ、さらに

  こんどの選挙は、連合軍総司令部の声明にもある通り、来月行われる選挙はまつたく、国家再建の成否をかける重大な選挙であります。しかも私達有権者が投ずる一票の結果が、直ちに清新明朗な民主主義的政治の基盤をなすことを思ひ(へ)ば、一票たりともゆるがせにできません。忙がしい時ですが、何事をさしおいても投票いたしませう。

と棄権の防止を呼びかけた。やがて四月五日知事と市町村長のはじめての選挙が執行された。このときの新方村の投票率は七八%に達した。そして民選による最初の埼玉県知事は、西村実造が当選した。ついで四月二十日参議院議員選挙が施行されたが、新方村の投票率はこのときは六二%に止まった。また埼玉県の地方区選挙結果は、自由党二、社会党一、民主党一の配分となったが、全国では社会党が四七議席を獲得、自由党の三八議席を大きく上まわって第一党になった。

 続いて四月二十五日の衆議院議員選挙が近づいたが、新方村ではチラシ広報などをつかって懸命に棄権の防止を訴えた。すなわち「キケンは恥」という見出しで

  いよいよ第三回目、衆議院議員の選挙が明後日に迫りました。すでに回覧板で投票率を申しあげました通り、比較的私の村の投票は平均、好成績であります。これも皆、皆さん方の深いご理解とご熱意のタマモノと共に、選挙当日に於ける組長さん方のご尽力によるものと厚く御礼申し上げます。進駐軍からは、選挙に対しては本当に涙のでるようなゲキレイの言葉を受けております。どうぞあと二回、投票すませて明るい心、一段とご尽力をおねがい致します。

とあるごとく、選挙に対しては「本当に涙のでるような」関心を示していたのは、むしろ進駐軍であったようである。こうして選挙当日を迎えたが、新方村の投票率は七〇・四%であり、埼玉県の平均七一%をやや下まわった。このうち無効投票が一九票であったが、なかには立候補者の名をおりこんだ

  佐瀬サセ青木 須永デ古ク 野口、田口ヲ小川ガ流シ、馬場ヤ野村モ睦マジク、大木深野デキミモ立ツ

という洒落た投書もあった。このときの選挙は、前回の大選挙区による連記投票が改められ、埼玉県を四区に区分した中選挙区による単記投票で施行された。その結果は越ヶ谷地域を含む第四区では、自由党古島義英・同佐瀬昌三、社会党馬場秀夫が当選した。全国の勢力分野では、社会党一四二、自由党一三四、民主党一二六、国民協同党三一、共産党四、諸派一六、無所属一三となり、第一党となった社会党委員長片山哲を首班とした三党連立内閣が誕生する。ついで四月三十日は最後の選挙にあたる県会、市町村会議員の投票日である。新方村では有終の美をかざろうとチラシ広報をもって棄権の防止をさかんに呼かけた。その一つに、

  私達の代表する県政・村政へ送る立派な人を選ぶ最後の御奉公の日です。一人のキケン者もなく必らず投票して下さい。進駐軍とゆうシュウトを持つ現在の私達でありますが、進駐軍は再建日本のタメ、本当に選挙については血の出るようなゲキレイの言葉を送っています。どうぞ人ごととは考へずご投票下さい

というものもある。こうして新方村のこのときの投票は八八・六%という好成績をおさめた。なかでも新方村大吉が九三・七%、同北川崎が九三・二%の成績をあげており、新方村平均では八八・六%であった。この投票率は埼玉県の平均八二・八%を大きく上まわるものであった。

新方村の選挙広報