その後の選挙

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次の衆議員総選挙は芦田内閣の崩壊によりこれを受継いだ吉田内閣のもとで昭和二十四年一月に行われた。この結果は越ヶ谷地域を含む南埼玉郡・北埼玉郡・北葛飾郡を区域とした第四区では、民主自由党青木正、同古島義英、同佐瀬昌三が当選した。全国では民主自由党二六四、民主党六九、社会党四八、共産党三五、国民協同党一四、労働者農民党七、社会革新党五、諸派一二、無所属一二で、共産党は飛躍的な進出をみせたが、前回第一党であった社会党は、党内の分裂などから急落した。これに反し民主自由党は絶対多数の議席を獲得し、民主党の連立派グループと共に第三次吉田内閣を組閣した。その後自由党や民主党を中心とした保守党は、常に絶対多数の議席を保ち続け、永く日本の政権を担当した。なお埼玉県第四区から革新政党の衆議院議員が選出されたのは、昭和三十三年五月に行われた総選挙で、越谷町の社会党板川正吾が当選したのがはじめてであった。