終戦直後の労働運動

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労働者の団結権を認めた労働組合法は昭和二十年十二月に公布され、ついで二十一年九月に労働関係調整法、続いて二十二年四月に労働基準法が施行された。これらは通常「労働三法」とよばれ、労働者の経済的地位と労使関係の民主化を進める基本的な法律であった。こうした労働者の基本的な権利をうたった労働関係の立法化を背景に、それまで抑えられてきた労働運動は、すさまじい勢いで台頭した。

 埼玉県における組合の結成においても、二十年十月に誕生した埼玉金属労働組合川口支部を皮切りに、同年十一月には、日本車輛蕨工場組合、東武新聞販売員組合、同年十二月には東武交通草加営業所組合、関東配電従業員埼玉支部組合、国鉄大宮工機部組合、翌二十一年二月には、埼玉県庁職員組合、同国民学校教員組合などが、雨後の筍のごとく続々と結成された。そして二十一年末には四五〇組合、約一〇万名という驚異的な発展をみせた。これらの組合は、全国的な産業別組織の結集に影響され、二十一年末までには、国鉄・金属・電産・機器・進駐軍・電工・繊維など、全県的な産業別労働組合が編成され、労働戦線の整備がはかられた。同時に組合運動の指導的機関である「総同盟県連合会」が二十一年一月に再建されたが、同年二月には埼玉産別会議の前身「埼玉県労働組合協議会」が新たに創立され、ついで二十二年十二月には中立をうたった「埼玉県労働組合協議会」が創立されるなど、それぞれ傘下組合における労働運動の推進母体となった。

 このような労働運動指導機関のうち、はじめその闘争方法に大きな特徴をもったのが、産別会議の戦術で、いわゆる生産管理闘争とよばれるものであった。これは昭和二十年十月の読売新聞争議で、組合が最初に行使した手段であり、これを契機に埼玉県下でも、ライト自動車をはじめ、加藤製鋼所・大同精機・石産金属・東洋時計などが争議に際し、労働者による生産管理を行なった。

 越谷地域でも、昭和二十年十二月、越ヶ谷町増田精機工場従業員二〇〇余名が、解雇反対など十数項目の要求を掲げて争議に突入したが、話し合いがつかないままついに生産管理に入った。なお生産管理中の増田精機には、二十一年五月五日、進駐軍の将兵四名が訪れ、従業員による工場管理状況を調査している。その後同年六月十三日に政府が発した「社会秩序保持に関する声明」によると、生産管理闘争は違法であるとの見解が示されたため、従業員による生産管理闘争は、ゼネスト戦術に切替えられていった。

 一方戦後のはげしい労働攻勢に対して、守勢一方に立っていた経営者陣営では、それでも二十一年六月に、旧産業報国会の地域組織を基盤とした、全県的経営者組織「埼玉工業倶楽部」を結成、労働攻勢に対抗する姿勢を示した。この工業倶楽部は、同年十月現在、一七団体一八二五工場を傘下に収めた。このうち越谷地域ならびにその周辺をみると、越ヶ谷工業クラブの参加数は三三八工場従業員一五五〇名、草加工業クラブが三二工場一五四一名、春日部工業クラブが一四一工場四三三四五名であった(『埼玉県労働運動史年表』)。これによると越谷地域の工場は一部を除き平均四、五人の零細な工場がとくに多かったようである。

 また労使間の対立がはげしくなるにつれ、労使間の紛争を解決する労働調停や、労働運動の正常化をはかるための機関を設ける必要が生じ、埼玉県では二十一年三月に地方労働委員会を発足させている。