熊沢機械の罷業

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二・一スト挫折の反動として、労働攻勢は一時沈滞を余儀なくされたが、二十二年七月頃から、桶川町の三井精機、川口市の永瀬鉄工、南桜井村の農村時計、熊谷市の秩父鉄道、川越市の帝国火機、川口市の石産金属、同市の関東機械、浦和市の新潟鉄工、越ヶ谷町の伊藤製作所など相ついで争議に入るなど、賃金値上げをめぐる労働攻勢が活発になった。

 こうしたなかで、越ヶ谷町大作の熊沢機械労働組合は、同年九月から賃上げ及び解雇反対を掲げて闘争に入った。これを埼玉新聞十月二十一日付の報道でみると、「越ヶ谷町熊沢機械会社従業員百七十余名は、九月上旬会社側に基本給六割値上、物価手当支給、平均賃金二千六百円を要求、会社側はこれにふれず、去る十一日人員三分の二整理を発表、十八日に至り全面的に拒否の回答をしたので、ついに罷業に入った」とて、熊沢機械従業員は九月十八日からストに突入したことを報じていた。その後十月二十九日付の同新聞によると、「越ヶ谷町熊沢機械会社のスト騒ぎは、廿七日に至り双方歩みよって、従業員三分の二かく(馘)首は全面的に徹回、(一)給料六割値上は三割値上とする。(一)物価手当は年末何等かの形で支給するとの条件で」円満解決したことを報じていた。

 しかし越谷地域は、まだ農業生産地帯であり、藁工品や木箱・染物・人形など家内工業を中心に、中小企業体の工業しかみられなかったので、一部機械工業などを除き、およそ労働運動の目立った動きはなかったようである。