その後レッドパージその他労働運動活動家に対する弾圧が強まり、組合活動は一時停滞したが、昭和二十八年朝鮮動乱の休戦を契機に襲ってきた不況のもとで、再び活発な動きを示した。
越谷地域でも、三十年に行なわれた衆議院議員の総選挙に、越谷町の板川正吾が社会党公認として立候補したのを機会に、急速に革新の芽が起動しだした。そして三十一年越谷町に居住する勤労者によって勤労者団体協議会の結成準備が進められ、翌三十二年五月十七日越ヶ谷映画劇場において結成大会が開かれた。この協議会は当時東武鉄道・東京電力・越ヶ谷郵便局・越谷紡績・越谷小・中学校教員を中心とした勤労者八〇〇名によって組織された。会の目的はその規約によると、「勤労者の親睦と交流を図り、社会的地位の向上及市政民主化に努力すること」とあり、その活動は地区労働組合協議会的な一面もあって、組合運動の相互協力が主体であったが、同時にレクリエーション活動や学習会、さては地元商店で物を買う運動など、幅広い活動が展開された。
ことにこの協議会の運動のなかで特筆すべきものに、三十四年の「越谷市議会議員選挙区条例」における大選挙区制への推進運動が挙げられる。すなわち越谷町では市制施行にともなって、選挙区の改正条例を審議したが、市議会の大勢は旧二町八ヵ村に区分された小選挙区制案を採用しようとしていた。このなかにあって勤労者団体協議会は、小選挙区制は、(1)議員活動に地域セクトが強く打出され、市全体の発展に弊害をもたらす、(2)立候補者の調整が行なわれ、金権選挙が行なわれやすい、(3)市域全体から優秀な人材と思われる候補者を選べない、との理由から越谷市全域を一区とした大選挙区制を強く主張した。そしてチラシを配付したり宣伝カーを出したりして市民運動をもりあげる一方、市議会に傍聴人を繰り出して働きかけた。この結果、市議会の情勢は逆転し、圧倒的多数によって大選挙区案が可決された。
さらに同年の市議会議員選挙には、協議会から二名の候補者を立てたが、このうち一名が当選し、それまで保守系議員によって占められていた越谷の議会に、はじめて革新系の議員が送りこまれた。その後協議会は三十六年に発展的な解消をしているが、これが越谷地区労働組合協議会結成の基盤となったのである。
この間越谷地域にも労働組合結成の動きや労働運動が広く浸透していったが、その一つに昭和三十年十二月に結成された越谷町の越谷映画劇場従業員七名による労働組合がある。当時県下では川越市埼玉製氷労働組合の四名に次ぐ小組合であったという。ところが劇場の経営者は組合の結成を不満として全員に解雇を通告した。このため組合との間で紛争が続いたが、経営者は内部分裂をねらい七名中の三名を臨時雇という形で採用した。結局争議は県地方労働委員会に持ちこまれたが、四名のうち二名の復職を認める、会社は組合に対し金一封を支給するなどで、五〇日ぶりに解決した。