昭和三十六年十月二十日、越谷市役所大会議室で、越谷地区労働組合協議会の結成大会が開かれた。この地区労は、越谷勤労者団体協議会に加入していた各団体が母体となって準備を進めてきたものであり、当時の加盟組合は、東武労組越谷バス分会、越谷駅分会、全逓越谷分会、越谷紡織労組、田中電気労組、岡部労組、チヨダシューズ労組、越谷市職労組の八単産組合一七〇〇名によって組織された。
越谷地区労の目的は、「加盟組合の緊密な連携のもとに、労働者の基本的共通利益擁護と経済的・政治的・社会的地位の向上を図ること」となっており、採択されたスローガンは、(1)統一と団結で組織の強化を図る、(2)未組織労働者の組織化に努力する、(3)市政の民主化と革新勢力の前進を図る、の三つの柱であった。そして翌三十七年三月には、越谷駅前広場で開かれた地区労主催の春闘総蹶起大会には、八〇〇名の労働者が参加し大きな盛り上りをみせた。
また同年五月一日には、一五〇〇名の参加のもとに越谷地区第一回メーデーが北越谷駅前広場で開催された。チヨダシューズ労働組合のブラスバンド演奏をはじめ、参加労働者の唄声や演芸などで労働者の祭典がくりひろげられ、その後越谷駅前まで市内行進が行われた。
また同年には関東製鉄・東武ピーエス、十字屋テーラー、翌三十八年には広田ライター、三十九年には越谷乗用車などが地区労の指導で労働組合を結成したが、さらに三十九年に電通越谷分会、四十年に共栄クリーニング、東武通運越谷分会が越谷地区労に加入、組織はいよいよ拡大されていった。
この間越谷市役所に職員組合が結成されたのは、昭和三十六年三月三十日のことであったが、同年四月、組合結成後市側とはじめての団体交渉が行われている。このときは一律四〇〇〇円のベアと、初任給三〇〇〇円の引上げを要求していた(中島哲男氏提供)。