改革前夜の越谷農村

808~810 / 1164ページ

わが国の農地改革は第二次世界大戦における敗北という歴史的な画期をまって、アメリカ「占領軍」のいわゆる「民主化」政策の一環として提起されたものである。しかし、それは戦後忽然としておこなわれたものではない。農地改革の実現への客観的根拠は、第一次大戦後、とくに第二次大戦とその敗戦により成熟していたといえよう。

 全国的にみると、戦争経済への進展の過程で、農業用資材の減産、不足、労働力不足などにより、農業生産力の破壊がひきおこされた。また、土地取上げ制限、小作料・農地価格統制、食糧の国家的統制などにより、小作米の実質的金納化、低減化が進展し、寄生地主制の機能の制限、分解がすすめられた。その結果、耕作放棄や農地潰廃、反収の低下が進行した。

 越谷地域を含む南埼玉郡は、埼玉県の中では農地所有の集中度は最もたかく、また、農民の社会的意識も保守的であったといわれる(『埼玉県農地改革の実態』一三頁)。すなわちまだ封建的小作関係が根強く持続され、農民の地主に対する隷属的身分関係はたちきられず、古いままの機構が持続されていた。たとえば、「地主が自家の内に小作管理人たる家守をおき、小作地のことは万事、家守をして管理せしめ、その報酬として自己の持地を無料で小作させる」という「家守小作」が、この地域には、昭和十二年調査時点においても残存していた。

 そうした状況の中にあって、戦前の小作争議については、この地域では、昭和五~六年より「小作料減免」運動が展開され、昭和五年の潮止村、六年の八幡村、八年の吉田村の争議は最も激しいものであったが、それらが決定的な弾圧をうけて敗北すると、そのあとには、めだった農民運動は発生しなかったようである(前掲書)。

 越谷地域の農地改革前夜の地主・小作関係をさらにくわしくみよう。

 第17表は水田・畑地の小作地率の県全体と南埼玉郡の比較である。埼玉県全体としても全国平均より小作地率が高いが、南埼玉郡の場合は、埼玉県をさらに上まわっている。しかも全国的にみて寄生地主制に対する制限が強化される昭和十五年~二十年の五年間にこの地域では小作地率が水田で四%、畑地で二・六%増大している。この間の耕地面積の変動を第18表でみると、戦時経済の下で農業生産力の衰退が自作において強くあらわれているのをよみとることができる。すなわち、昭和十五~二十年の五年間に田の面積は県全体では、自作地で六・五%の減少であるのに対し、小作地では変動なし、南埼玉郡の場合、自作地では三・八%の減少、小作地では〇・一%の減少と小作地の変動はきわめてわずかである。先の地主小作関係と考えあわせると、この地域においては、戦時経済下で全般的に農民の低落がすすむ中で地主小作関係は強まったとさえいえよう。さらに、桜井村の農地改革直前の地主・小作関係をみると第19・20・21表のごとくである。地主は総戸数中一〇・六%をしめ、小作は六一・六%を占めている。水田の六四・四%は小作地となっており、これら地主のうち大規模のものは一戸で水田一〇町歩を所有している。

第17表 小作地率(小作地面積/耕地面積)の変化
埼玉県 南埼玉郡
大正15年 53.3 42.9 57.1 53.3
昭和5 57.2 42.2 59.6 52.2
  10 57.9 43.5 60.8 52.0
  15 59.0 43.6 61.3 52.2
  20 59.8 45.6 65.3 51.8

(注)『越谷市史』(六)405頁より作成

第18表 耕地面積の変動(△は減少)
埼玉県
自作地 小作地
昭和
10~15 △0.1 △2.0 0.3 △1.7
15~20 △6.5 △5.3 0.4
南埼玉郡
10~15 △1.8 △3.5 0.5 △0.4
15~20 △3.8 △4.4 △0.1 △8.9
第19表 桜井村階層別戸数
地主 41 10.6
自作 107 27.8
小作 237 61.6
第20表 桜井村耕地面積
自作地 小作地
水田 93.6 (35.6) 169.5 (64.4)
55.1 (44.0) 70.0 (56.0)
第21表 在村大地主所有農地面積
町 反 町 反 町 反
A 9.3 9.8 19.1
B 9.4 4.9 15.3
C 9.7 9.5 19.2
D 10.9 2.4 13.3
E 8.1 2.4 10.5

 以上みてきたように、越谷市域の旧村の地主・小作関係は、農地改革前夜に至るまで、全国平均・県全体と比べて比較的強固であったといえる。