越谷における農地改革の実施過程について述べる前に大雑把に農地改革立法についてふれておこう。全国的にみて、地主の相対的地位の低下は、すでに第一次農地改革の足場をきずいていた。占領軍による農業・土地問題の処理に先立って、日本政府は、「上からの改革」の断行にふみきった。すなわち、昭和二十年十一月に幣原進歩党内閣は「農地制度改革要項」を作成し、十二月の第八九帝国議会に提案した。これは地主勢力の抵抗をうけ、成立が危ぶまれたが、十二月、占領軍の「農民解放司令」の援護により、ようやく成立、公布された。これが第一次農地改革案である。その要点は、
(1)不在地主の所有する全小作地、在村地主の所有する小作地のうち平均五町歩をこえる部分を五ヵ年間に小作人の希望により解放する。
(2)物納小作料の金納化。
(3)小作地の取上げは市町村農地委員会の承認を要するものとし、承認の条件を厳重にする。
(4)地主・自作・小作各五名の階層別に選挙された委員に三名の中立委員(知事任命)を加えて農地委員会を構成し、これに広汎な権限をもたせる。
というものであった。しかし、第一次農地改革法がきわめて不徹底なものであったことにより、また、その成立過程で地主勢力の土地取上げ、売り逃げ、法案の審議未了への言動、それらに反対する労農運動の拡大により、占領軍はこの実施を停止させた。そして、あらたに政府に改革案の作成を命令するとともに、対日理事会をつうじて、「農地改革覚え書」を作成し、日本政府に勧告し、占領軍の手による「上からの」改革に着手した。いわゆる第二次農地改革である。その要点は次のようである。
(1)不在地主所有の全小作地と、在村地主所有の小作地のうち平均一町歩を超える部分を二ヵ年間に国が地主から強制的に買収し、それを小作人に売り渡す。
(2)買収は二十年十一月にさかのぼっておこない、買収価格は水田は賃貸価格の四〇倍(全国平均反当七六〇円)、畑は賃貸価格の四八倍(同じく四五〇円)とする。
(3)高率小作料の低率金納化(小作料率は田二五%、畑一五%以下)。
(4)地主三名、自作二名、小作五名の階層別選挙によって構成される農地委員会が、買収計画の作成、その手続きの実施を担当し、小作料や小作権の統制にあたる。
しかし、この農地解放は原則的に農地に限定され、しかも平均一町歩の地主保有地が残存され、山林・原野が未解放のまま放置された点で大きな限界性をもっていた。この第二次農地改革は、二十一年九月に議会を通過し、同十二月に市町村農地委員会の選挙をへて、翌三月末より農地の買収が行なわれることになる。