農地改革を直接担当した組織は、「民主的執行機関」たる農地委員会機構とこれを指導する一連の行政機構であった。まず農地委員会から述べよう。
市町村農地委員会選挙は二十一年十二月末に一斉におこなわれた。たとえば増林村の選挙結果は次のとおりであった。立候補者は小作八、自作五、地主三であり、投票は自作・小作層のみおこなわれ、結果は第22表のごとくであった。歴史的な選挙であることからすると、投票率は低く、とくに女性の場合は自作、小作とも半数以上が棄権している。
有権者数 | 投票数 | 投票率 | ||
---|---|---|---|---|
人 | 人 | % | ||
地主 | 男 | 65 | 無投票 | |
女 | 76 | |||
自作 | 男 | 267 | 228 | 85.4 |
女 | 294 | 128 | 34.0 | |
小作 | 男 | 616 | 463 | 75.2 |
女 | 630 | 259 | 41.1 |
桜井村の場合もほぼ同様である(第23表)。しかし、増林村が男性で自作が小作よりも高い投票率を示しているのに対し、桜井村の場合、反対になっている。その結果選出された農地委員の構成は増林村の場合、第24表のごとくである。記録によれば村内での勢力関係では地主がやや強いとある。ここで特徴的なことは、小作側委員の経営面積が大きいことである。また、役職からみると委員全体の社会的地位がたかいことである。小作側委員中二名は小作兼自作である。いわば小作側委員といっても、村の中では中層以上に位置していたと思われる。川柳村の委員構成ではこのことはもっとはっきりと示される。これらはこの地域において小作層の力が不十分であったことを示しているといえよう。
地主 | 自作 | 小作 | ||
---|---|---|---|---|
委員定数 | 3 | 2 | 5 | |
立候補者数 | 3 | 4 | 9 | |
有権者数 (人) |
男 | 66 | 185 | 342 |
女 | 60 | 205 | 374 | |
投票者数 (人) |
男 | ― | 133 | 297 |
女 | ― | 82 | 197 | |
投票率 (%) |
男 | ― | 71.9 | 86.8 |
女 | ― | 40 | 52.7 |
階層別 | 所有耕地面積 | 経営面積 | 農業会・農地組合村役場等役職名 | 主たる職業 |
---|---|---|---|---|
反 | 反 | |||
小作1 | 9.7 | 部落会長 | 農 | |
2 | 14.8 | 〃 | ||
3 | 16.6 | 〃 | ||
4 | 5 | 11.1 | 〃 | |
5 | 11.2 | 〃 | ||
自作1 | 22 | 19.0 | 農業会理事 | 〃 |
2 | 21 | 18.0 | 部落会長 | 〃 |
地主1 | 75 | 4.6 | 村会議員 | 〃 |
2 | 79 | 16.9 | 〃 | |
3 | 41 | 20.0 | 村会議員 | 〃 |
人数 | 経営規模 | |||||
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小作 | 自作 | 貸付 | 計 | |||
町 反 | 町 反 | 町 反 | 町 反 | |||
小作層 | 純小作 | 0 | ||||
小作兼自作 | 5 | 0.9 | 0.4 | 1.3 | ||
自作層 | 自作兼小作 | 2 | 0.4 | 1.1 | 1.5 | |
純自作 | 0 | |||||
自作兼地主 | 0 | |||||
地主層 | 地主兼自作 | 3 | 0.9 | 3.6 | 14.5 | |
不耕作地主 | 0 |
つづいて、翌二十二年三月に県農地委員選挙がおこなわれ、間接選挙によって、小作委員一〇、地主委員六、自作委員四が選出された。越谷市域からは、地主委員として、大野伊右衛門が選出されている。県農地委員会第一回会合は昭和二十二年三月三十一日に開催され、「埼玉県農地委員会規定」を制定し、事業の第一歩をふみ出した。
この農地委員会の他に、農地委員会を指導した行政機構の力もまた、きわめて大きい。日本の農地改革は優秀な官僚機構の存在によってはじめて可能であった、といわれるほどである。県レベルでは、県農地部および農地課が農地改革の指導機構として大きな役割をはたした。また、地方事務所にも農地課がおかれ、直接に市町村農地委員会が農民と接触することになった。
越谷市域における農地改革執行機関のその後の組織的展開についてふれておく。
市町村農地委員会発足後まもなく、越ヶ谷町をはじめ、隣接一四ヵ村、すなわち、越ヶ谷、大沢、桜井、新方、増林、大袋、荻島、出羽、蒲生、大相模、川柳、八条、八幡、潮止の町村をもって農地委員会長会を組織し、事務局を越ヶ谷町役場に設置した。ここでは、たとえば、二十二年四月の決定事項として、(1)隣接町村の入耕者の耕作権は認める、(2)神社、寺院の保有地は、一町歩を限度として認める、(3)農地委員会の書記主任の給料は八〇〇円、補書記の給料は五〇〇円内外とする、などのとりきめがなされていた。
ついで、二十三年一月、「各農地委員会との連絡を密にし、かつ農地改革促進をはかる」ことを目的として、一四ヵ町村からなる南埼玉郡農地委員会連合会が結成され、隣接広域町村の連絡協議をさらに強化することが図られた。ここでは耕地整理、買収講習会などを開いて専門的な農地改革の研修を重ねた。ところが、二十二年九月、農地改革の費用を全額国庫で負担すべきであるとする要求が高まり、この目的を貫徹するために農地委員会全国協議会が結成された。埼玉県でも二十三年二月、農地委員会埼玉県協議会を発足させたが、こうした全国、県の委員会連合の動向に呼応し、南埼玉郡の町村連合も、同年三月十五日、そのままの組織で農地委員会埼玉県協議会南埼玉支部を発足させた。この創立大会では、(1)農地委員会の経費の増額と全額国庫負担、および委員会長の出納権確立に関する件、(2)職員の待遇改善と身分保証に関する件、(3)農地改革阻害行為の排除に関する件などがとりあげられた。こうして農地改革は横の連携をも保ちながらすすめられた。