農地改革の実施過程(2)

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農地委員会の発足とともに最初にはじめられたのは、農地改革についての学習である。埼玉県では、二十二年一月~二月上旬にかけて、農地課による農地委員、書記、補助員などを対象に農地改革関係法令の講習をおこない、二月下旬から三月にかけて、「農地一筆調査規則」、「農地買収計画要項」の実務講習をおこなった。

 三月に入って、県下の農地委員会は、一斉に農地の買収を開始することになる。桜井村の場合、農地の解放に該当する買収予定面積は、田畑合計一九七町二反歩(約一九五ヘクタール)、売渡される予定の小作戸数は約一五〇戸と計画された。買収にあたっての農地の平均統制価格は国の規準では田で六四五円二〇銭、畑で四〇七円四銭と定められた。第一回の買収は県下一六ヵ町村で不在地主の小作地買収がおこなわれたが、この地域の村々がこれに入っているかどうかについて、記録によれば川柳村の場合は入っていない。五~六月にかけて各村々では農地一筆調査に基く実地調査を実施し、昭和二十年十一月二十三日以後の農地の不当移動に対する遡及買収の可否、疾病や召集等の特別の理由による一時賃貸地の買収除外の適否の審理をおこない、一般小作地の買収に入った。川柳村の場合買収実績は第26表のとおりである。当初昭和二十四年三月二日を一応の最終期日としてすすめられたのであるが若干のおくれがみられる。

第26表 川柳村農地買収実績
法定買収期日 買収面積 地主数
年月日
1 22.3.1
2 22.7.2 16.94 1.10 18.04 43
3 22.10.2 123.44 14.93 138.38 199
4 22.12.2 31.23 3.91 35.14 50
5 23.2.2
6 23.3.2
7 23.7.2 75.06 4.16 79.22 90
8 23.10.2 2.45 0.13 2.58 8
9 23.12.2 0.76 0.28 1.04 16
10 23.12.31 0.11 0.01 0.12 3
11 24.3.2
12 24.7.2
13 24.10.2 1.11 0.05 1.16 12
合計 251.10 24.57 275.67 421

 しかし、当初の買収予定面積が田一八九町二反、畑一七町五反であったことからすると、実際の買収面積は田で三二・八%増、畑で四〇・六%増である。この最大の原因は最初の解放予定目標を立てる際に農地関係を表示すべき正確な統計資料に欠けていたことによるものではあるまいか。

 桜井村の場合、二十二年十二月までの実績は、解放農地一〇六町一反五畝、今後の買収見込は二八町三反五畝、当初の買収予定面積一九七町二反と当初の十二月二日までに一般農地買収の完了という計画からすればおくれている。農地の買収は予想外に難行した模様である。なおこの時の買収価格は、平均、田で八〇三円一九銭、畑で三九一円九六銭であり、畑はやや平均統制価格に近かったが、田はそれを上まわっていた。こうした成績不振に桜井村農地委員会はさらに調査を厳しくおこない、買収をすすめた結果、二十三年二月時点での報告では、買収面積が一三七町歩、今後の買収予定地が五二町歩余、合計一八九町歩余とやや当初の解放予定面積に近づいた。この時までの農地買収の対象となった地主は、不在地主九二名、不耕作地主一三名、耕作地主三二名であり、平均買収価格は、田で八二二円一一銭、畑で五〇五円四四銭にも高騰していた。この間、地主側の強制買収や価格の点での異議申し立てが一六件にのぼり、このうち申し立てが認められたもの八件、却下されたもの八件となっている。こうして強力に買収がすすめられた結果、同年六月には買収面積は二〇〇町歩に達し、当初予定を突破した。

 埼玉県全体としても、同年五月には、田畑合計四万五九八九町歩の当初買収計画の九九%に達していた。その後もさらに買収がつづけられ、二十四年七月には田で二万七四七二町歩、畑で二万七五一〇町歩、合計五万四九八三町歩という当初計画を大幅に上まわった買収成績で一応農地買収を完了した。

 なおこの間、寺院や神社の所有農地も、不耕作地主などに該当されて買収の対象になったが、なかには桜井村の浅間神社所有地のように、神社の営繕や諸経費にあてるため、氏子によって共同耕作を行なってきた由緒を陳情し、買収の対象から除かれたものもあった。

 農地の売渡しについては、まず昭和二十二年九月一日に県農地課より「農地売渡計画作成要領」が市町村に指示された。そこでは、(1)売渡計画の作成は、全耕作農民が納得のいくように公明正大に行うこと、(2)耕作面積があまりにも小さく、耕作者の職業として農業の比重がきわめて小さい者には売渡さない、(3)買受けの機会の公正を図る交換を完全におこなうことなどが規定されている。実際の売渡しは、第一年目の二十二年にはあまりおこなわれず、農地の買収が一段落した昭和二十三年より、各市町村で本格的におこなわれた。しかし、買受けの機会の公正を図る農地の交換が予想以上に難行したうえ、なかには不良耕地の買受けを拒む農家や、耕作権を放棄する農家もあらわれて、売渡しはかならずしも順調には進行しなかった。このため県では、同年六月「農地売渡促進強調週間」を設けたりして売渡しの促進をはかった。またこの期間に各郡別に「農地売渡促進協議会」が開催され促進運動が展開された結果、七月には、県全体で四万〇七二二町歩の売渡が成立した。

 川柳村の場合、第27表のごとく、二十二年中に全体の六七・四%を完了しており、比較的早期に本格的に着手されたが、完了は二十四年十月となっている。売渡しの後の委員会の大きな業務としては、農地売買の登記事務が残されていたが、農地委員会協議会は、二十四年十月には事実上登記事務促進協議会に衣替えして登記事務の促進に努めた。

第27表 川柳村農地売渡経過
県農委承認期日 農地売渡面積 買受者数
22年9月中 83.66 7.22 90.69 340
22.10 54.47 8.82 63.29 284
22.11
22.12 30.93 3.68 34.61 203
23.1
23.2
23.7 61.98 3.37 65.35 337
23.10 21.35 1.33 22.68 94
23.12 1.57 0.29 1.86 28
24.10 1.11 0.05 1.16 12
合計 255.07 24.57 279.64 1,298

 越谷地域の登記事務促進協議会は、やはり越ヶ谷町を中心に隣接一四ヵ町村で組織されたが、浦和法務庁越ヶ谷出張所管内の関係上、八条村、八幡村、潮止村の三ヵ村が除かれ、かわって新和村、大門村、戸塚村がこれに加わっている。この協議会の目的は、「農地改革事業の最終事務である登記を、迅速正確に完了すること」にあり、その事業として、(1)研究会の開催、(2)登記事務の講習会の開催、(3)登記事務促進状況の発表、(4)功労者の表彰となっている。こうして登記事務の促進がはかられた結果、二十五年四月までの越谷出張所管内の登記済成績は第28表のごとくであった。

第28表 自作農創設特別措置登記町村別調(昭25年6月調)
町村名 買収登記 売渡登記 代位登記 閲覧 備考
件数 筆数 面積 件数 筆数 面積 件数 筆数
越ヶ谷町 42 1,711 7,201 512 1,755 7,379 閲覧中
大沢町 77 1,295 6,771 678 1,362 7,781 38 395
出羽村 126 5,181 28,025 1,578 5,802 33,285 16 144
荻島村 99 2,797 16,598 522 2,738 16,610 14 60 完了
桜井村 52 2,308 15,216 1,055 2,339 14,542 62 301 閲覧中
大袋村 61 2,854 17,808 1,398 3,443 20,779 19 293
新方村 56 2,308 16,226 904 2,671 14,130 23 337
大相模村 118 4,995 27,148 1,482 4,294 22,700 38 307
川柳村 158 6,445 28,063 1,802 5,433 24,224 11 2,963
増林村 45 5,152 20,182 1,697 6,087 22,293 21 613
蒲生村 57 3,835 18,331 1 9
新和村 29 3,334 19,791 1,266 3,717 21,412 14 659 完了
大門村 60 2,386 12,884 639 2,541 13,126 6 62
戸塚村 89 3,056 13,423 1,321 3,849 17,695 98 695
1,069 47,657 247,667 14,854 46,031 235,956 361 6,838

 政府はこの翌年、すなわち、二十六年三月、農地改革の完了を宣言し、「農地委員会法」を制定した。これによると、同年七月に施行する農業委員会委員選挙をもって、農地委員会は解消することになる。これに対し、農地委員会南埼玉郡一四ヵ町村協議会は、同年三月総会を開き、昭和二十六年度の事業計画を発表している。この事業計画によると、「昭和二十六年度における本協議会の事業活動は、農地改革の成果を基盤として農業改革を促進することにある。すなわち、農業改革を達成することは、農地改革の成果を恒久的に維持することにある」として、農地等の強制譲渡の断行、買収洩れ土地の一掃、仮装自作地の究明、農地管理の強化、耕作権の保護とその確立、自作農家の転落防止、交換分合による農地集団化の実施、創設農家の維持育成、農業経営の改善などを掲げ、このためには、あらたに設置される農業委員会委員には農地委員を確保すること、農業委員会の運営には、農地委員が主導権を握ること、農地委員会書記は、そのまま農業委員会書記にきりかえることなどを計画におりこんでいた。

 ともかく越谷地区農地委員会協議会は、二十六年七月の解散式通知書で、同月二十日執行される農業委員会委員の選挙をもって、前後四年間にわたる農地委員会は発展的解消をとげることを報告していた。

 二十六年七月に誕生したこの農業委員会は、農地委員会と農業調整委員会、ならびに農業改良委員会の三者が合体したもので、その後の農業施策の推進母胎となった。なお、越谷地区ブロックの登記事務促進協議会も、一〇〇%の登記事務を完了し、同年十月に解散式をおこなった。