農業協同組合

820~822 / 1164ページ

昭和二十年十二月に発せられた農民解放に関する連合軍総司令部の覚書の中で、農地改革とならんで「農民に対する権力統制の機関である」農業会を解体し、地主・官僚・商人などに支配されない、耕作農民のための自主的な農業協同組合を設立すべきであるとの条項が示されていた。政府はこれにもとづき、二十二年十一月、農業協同組合法を制定した。

 これによると、従来の農業会は、二十三年八月十五日をもって法定解散と定められたので、全国各地の市町村では、この間に農業協同組合を設立していった。越谷地域の各町村でも、従来の農業会の財産その他を受けつぎ、同年八月までに協同組合を設立した。

 農業協同組合の目的は、たとえば増林村の組合定款によると、「組合員が協同してその農業の生産能率を挙げ、経済状態を改善し、社会的地位を高める」ことにあった。この目的を果すため実施する事業としては、組合員への資金の貸付、組合員の貯金の受入れ、物資の供給、共同利用施設の設置、組合員の生産する物資の運送・加工・貯蔵・販売、農業倉庫業法による倉庫事業の経営、農作業の共同化その他農業労働の効率を増進するための施設の設置、災害に対する共済施設の設置、等々、広汎な事業領域に及んでいた。

 また組合員の資格としては、正組合員は、一反歩以上の農地を耕作する農民、もしくは一年間に九〇日以上農業に従事するもの、となっているが、このほか組合の諸施設を利用することが適当と認められるときは、準組合員として加入できるとなっている。ただし組合員は、一口一〇〇円の出資金を一口以上所持しなければならぬことになっている。また組合理事は、組合員の直接選挙によるが、理事長や専務は理事の互選によって任ぜられるとなっていた。

越谷市農業協同組合

 ともかく農業協同組合の発足当初は、農村の好景気に支えられ、組合員の出資金や預貯金も順調な経過をたどり、販売や購買の事業は黒字が続いた。しかしその後食糧事情の好転や、引締政策によるドッヂライン(八六六頁参照)の浸透などで、経営不振におちいる組合もあった。しかし越谷地域の組合はいずれも難関を突破し堅実な経営を続けていったが、昭和三十八年三月、新方・大袋・荻島・蒲生・大相模・増林・出羽・大沢・越ヶ谷の一〇農協が大同合併し、越谷市農業協同組合として新たな発足をみた。当時の正組合員数は三六九四名、準組合員数は九三二名、計四六二六名の大組合に統合されたわけである。この合併により昭和四十年越谷市赤山町に近代的建築による越谷市農業協同組合が設けられ、有線放送施設も全域九支所が統合されるなど、東京市場への青果物供給所の中心となった。