昭和三十年以後、日本経済は本格的な重化学工業化をすすめ、重化学工業を中心とする大規模投資に主導され、他方低賃金を基礎にしながら、世界的にも類例のないほどの高テンポと長期持続性をもった高度経済成長期に入ってゆく。
越谷地域の農業は、三十五年頃より急増する工場進出、以後三十七~八年頃より、それにかわる住宅化、都市化の波にあらわれ、かつて経験したことのない農地の破壊がすすめられ、困難な状態のもとにおいやられていった。
人口増加はこの間年々急上昇してゆき、四十二年以後は年一万人をこえる増加があった。そして三十五年から四十五年の一〇年間では九万二二三四人の増加、世帯数にして二万六八一六世帯の増加をみている。すなわち一〇年間で人口にして二・八倍、世帯にして四・一倍に膨れあがったのである。これに対して、耕地は一一〇八ヘクタール、一〇年間で二六・八%減少した。
いうまでもなく、この過程は高度成長政策のもとで工場、住宅が安い土地を求めて、地価の高い都心から、周辺の農業地域に拡散してきたことによるものである。越谷のみならず、この間、都心から二〇~三〇キロメートル圏内には人口激増地域がみられる。こうした中で先にみたように、水田や畑もつぎつぎに転用され、工場や住宅地などにかえられてきた。地価があがり、営農が困難になり、多くの農民は土地を売り、賃労働者化し、また後継者問題も深刻な問題となってきた。(このように近郊農村越谷地域が高度経済成長下で都市化の波にさらされ、いかに変貌したかについては第四編第二章参照)