戦後の村づくり

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これまで、戦後復興期の越谷農村について、農地改革、供出問題などを中心にして述べてきたが、高度経済成長下で都市化進展時期について述べる前に、その前提として本節では、昭和二十年代後半から三十年代前半の越谷農村の姿をえがいておこう。

 この時期は、朝鮮戦争の特需を契機に戦後復興の過程を終了させ、他方、対日講和日米安保条約を軸とする日米関係の下で、戦後処理を一応終了し、「経済自立」が全経済政策の基本課題とされた時期である。農業面では、「経済基盤」の強化のために、食糧輸入をできるだけ抑制し、米・麦を中心に食糧を増産して、自給度をたかめてゆく施策がうちだされた。土地改良・農業生産奨励、農村振興のための農業行政投資が以前よりも大規模におこなわれ、大量の補助金が団体や個別農家に撒布されたのもこの時期である。

 越谷の場合も、この時期は、農地改革によって創設された自作農の生産積極性が大いに発揮され、生きいきとした米づくり、村づくりがなされた。

 第31表はこの時期におこなわれた土地改良事業の実施状況である。二十五年から三十一年までの約六年間に一七事業が行われている。事業費は単純計算で一億六六七六万円、頭首工三、用水路一万四〇五〇メートル、排水路三万二一〇〇メートル、農道七万八八〇〇メートル、堤塘四五〇〇メートル、揚水機二の事業がなされ、受益面積七七三・七町、事業効果二二八七石の増収がえられるようになった。

第31表 土地改良事業の実施状況
地区別 事業名 事業主体 事業内容 受益面積 事業費及びその負担区分 事業効果 着工年月日
完成年月日
千円 昭和
出羽 かんがい排水 水利組合 護岸工事 53.0 356 106 25.12.13
県費 106 26.3.31
大相模 共同施行 61.0 485 128 25.11.6
県費 145 26.2.3
21.0 267 42 25.12.3
県費 80 26.1.10
増林 横堀落合土地改良組合 60.0 96 120 25.1.10
県費 28 26.2.13
蒲生 蒲生外四ヶ村土地改良 弾丸暗渠 10.0 300 2 25.12.10
県費 90 26.2.18
増林 区両整理 土地改良組合 区画整理 50.0 1,912 120 27.11.1
県費 382 28.3.31
荻島 暗渠排水 荻島農協 弾丸暗渠 72.5 2,518 195 27.11.20
県費 503 28.3.31
かんがい排水 末田土地改良 床止工事 45.0 1,090 45 28.12.25
県費 327 29.3.31
蒲生 暗渠排水 蒲生外四ヶ村土地改良 弾丸暗渠 46.2 1,743 92 28.12.18
県費 348 29.3.31
増林 農地造成 増林村 旧河川埋立 7.3 1,828 19 28.11.10
県費 365 29.5.31
かんがい排水 越谷町 護岸工事 212.0 623 636 29.3.31
県費 160 29.5.5
荻島 床止工事 20.0 325 30 29.12.15
県費 50 30.3.10
増林 農地造成 旧河川埋立 13.5 1,270 270 29.5.15
県費 254 30.3.12
蒲生 暗渠排水 蒲生農協組 弾丸暗渠 39.9 1,142 355 31.1.11
県費 228 31.3.31
荻島 かんがい排水 越谷町 護岸工事 20.0 294 30 31.2.15
県費 84 31.3.31
増林 区画整理 増林第二土地改良 区画整理 34.4 2,277 80 31.4.1
県費 455 32.3.26
蒲生 暗渠排水 蒲生農協組 完全暗渠 4.9 150 17 31.1.11
県費 30 31.3.31

 また、農地改革以後の農地の交換分合については当初、農民はあまり乗気ではなかったようである。たとえば、農地改革のほぼ終了した時点の二十五年十一月の桜井村『農地交換分合実施についての世論調査』では対象一八九名中「集団化のための交換分合をやった方がよい」と答えたものは一二名、「やりたくない」一二四名、「わからない」五三名で、圧倒的に否定的回答が多い。「やりたくない」と回答した者の理由では、「経済的につまっておるのに余計な金をかけて交換しなくても現在のままで不便を感じない」が五八名、「農地の地味、農道、用排水路の良いものばかり耕作しているから」が三〇名で、「有力者の都合のよいように交換されてしまう」と回答した者も三名いる。しかし、二十七年の増林村公民館発行の雑誌『こうみん』の寄稿文の中には、〝農業経営の合理化〟という題名で、

  永い間極めて不満な小作制度も、今次の農地改革に依り小作地の九割は解放せられ、高額な小作料率も低率の金納化し、且小作契約の文書化により耕作権は安定し、農地に対する諸条件は一応確立されたのである。しかしこれで完全に農業経営は合理化されたであろうか、又生産力を高めたであろうか。我々が農地を見るに、二百町もある一耕地に狭い屈曲せる道路が七、八本、溝畔の崩れた用排水兼用の堀が三、四本、多種多様の形状をなせる小さな田畑が各農家区別なく点々と散在している。か様な関係上、農業生産力は愚か、技術向上、生活改善は考へられない。

したがって、土地改良事業を促進し、農業経営の合理化を進める必要がある。その結果、労力と時間の節約はもとより、経済の向上がもとめられ真の文化農村を築くことができる。とその農業合理化の方法を強調したものがあった。事実増林村では、農地の交換分合を進め、すでに二十七年までに六九町歩余の土地改良を実施していた。こうしたなかで、〝土地改良 今朝も雨かと 空を見る〟〝銀世界 鋤を片手に 家を出る〟〝堀ほりて 今日も一日 終りける〟との土地改良事業に寄せた俳句も雑誌に載せられていた。