終戦後の教育

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昭和二十年八月の終戦と同時に学徒の勤労動員は解除されたが、八月二十一日には戦時教育令が廃止された。これにかわり九月十五日文部省は「新日本建設の教育方針」を示し、戦後の新しい事態に対応する日本の教育方向を明らかにした。これによると、天皇制国体を護持しながらも、国家主義的、軍国主義的な思想や教育政策を排し、文化国家、平和国家の建設をめざすとうたっており、そのためには、科学的思考力にもとづく教養をやしない、平和愛好の念を厚くし、知性徳性の水準を高める教育の必要性が強調されていた。

 ついで文部省はこの教育方針にもとづき、九月二十日従来使用されてきた教科書の取扱いについて指示を与えたが、これには戦時色の強い教材や、国際親善を妨げるおそれのある教材、ならびに戦後の新事態にいちじるしくかけ離れた教材などの削除を達していた。このため学校では教科書中不適当な箇所を墨で消して用いたが、修身・地理・歴史などの教科書は到底使用できない状態となったので、同年十二月三十一日、「修身・日本歴史および地理停止に関する覚書」が発せられ、これら教材の使用は停止され回収された。

 昭和二十一年四月新しい教材による国史の授業がまず再開されたが、この間国史では総司令部提供による『太平洋戦争史』が用いられた。続いて同年七月二十日、地理科の授業が再開され、同年十月二十四日には、国史教科書『くにのあゆみ』が刊行されたが、修身科の授業はついに再開されなかった。

 また体練科にあっては、終戦直後の八月二十四日、学校軍事教育と戦時体練の廃止が発せられ、銃剣道をはじめ剣道・柔道・薙刀などの武道教練が禁止された。さらに総司令部は、教職員の適格審査を命じ、教育界から職業軍人や軍国主義者を排除するよう指示したが、同時に「国家神道・神社神道に対する政府の保証・支援・保全・監督ならびに弘布の禁止」指令を発し、神道と町・村政との結びつきの分離がはかられた。これにともない学校生徒による神社参拝や勤労奉仕は禁止され、御真影奉安殿なども学校から撤去された。表忠碑や忠魂碑の撤去も指示されたが、越谷地域では校庭にあった碑は他の場所に移されたが、これを地中に埋めるようなことはしなかったようである。